戦争と老年性痴呆症 フランコ・ベラルディ(ビフォ)
櫻田和也訳
*初出 20220227 https://lobosuelto.com/guerra-y-demencia-senil-franco-bifo-berardi/
伊語版 20220228 https://not.neroeditions.com/guerra-demenza-senile/
即席訳 20220228; 伊語版による改訂 20220302
滅亡
ウェルベックの新刊『アネアンティール』は700頁の大著だが、その半分で十分だったかもしれない。著書のなかでも傑作とはいいがたいが、しかし支配的人種の凋落に対する、最も深い絶望と、同時に諦念と憤怒とを表現している。
フランスの深部。脳卒中を患う80才の父親のもとに集まる一家。シークレットサービスに務めた長老は昏睡したままだ。息子のポールも財務省勤務の傍ら諜報機関で働いているが、その最中に末期ガンが見つかる。もう一人の息子、ポールの弟オレリアンは、恒常的な敗北感に耐えがたく自殺をはかる。のこる娘セシルは、あるファシストの公証人と結婚したカトリック原理主義者の妻だが、失業してルペンの右翼サークルに居場所を見出す。
不治の病が。この平凡な小説のテーマである。西欧文明の断末魔だ。それは美しい見せ場ではない。白人の精神は不可避の死を受け入れられないのだから。老いた白人のあえぐ最期は悲愴なものだ。
ここで繰り広げられる苦悩の舞台こそ今日のフランスである。過去40年に及ぶネオリベ攻勢で文化的に荒廃し、排外的ナショナリズム、白人の人種差別主義、イスラム憎悪と経済原理主義のメフィスト的な包囲の内で展開された政治闘争に力尽きた、亡霊のような国家。
しかしその舞台はまた、ポストグローバル化した世界でもある。白人キリスト教帝国主義という、支配者ではあるが文化的には衰退した老人の譫妄に脅かされている。
自殺・戦争・断末魔
ヨーロッパ東部の境界線上で、二人の年老いた白人が後に引けない駒を弄んでいる。
年老いたアメリカの白人は、最も屈辱的で無惨な敗北から帰還した。それは支配的人種の精神的錯乱を示す兆候として、サイゴンないしカブールより酷い記憶として惑星的想像力に刻まれた。
年老いたロシアの白人は、その権力がナショナリスト的願望を基盤とすることを知っている。聖なる母ロシアの汚された栄光の敵討ちなのだと。
一歩でも引いた者がすべてを失う。
プーチンがナチであることはチェチェン戦争を皆殺しで終わらせた時から知られている。しかしアメリカ大統領から両目を見つめてその真摯さを理解すると言い、まったく好意的に受け入れられたナチなのだ。かれはまた、イギリスの銀行からもあたたかく迎えられた。ソビエト連邦から承継した公共部門の解体で、プーチンのお仲間たちが簒奪したルーブが溢れてくるのだから。ロシアと英米の支配層は、社会的文明すなわち労働者と共産主義運動の遺産を破壊することにかけては文字通り親密なる友人なのである。
だが暗殺者同士の友情が永久に続くことはない。もしも真の平和が確立されたとして、NATOに何か利点はあるだろうか? また莫大な利益をえる企業の大量破壊兵器の生産が、それきりで終わったらどうだろうか?
資本制が手放せない敵意(戦争)をリニューアルするための、NATO拡大なのである。
ウクライナ戦争を理知的に説明することはできない。それは白人脳の精神病的な崩壊の危機だからだ。ポーランド、バルト海そしてロシアのナチに対するウクライナのナチへとNATOが拡大する理由は何だろうか? 引き換えにバイデンは、アメリカの戦略家に最も恐れられた結果を招いた。ニクソンが50年前なんとか引き裂こうとした中国とロシアとの結託を促したのである。
だから喫緊の戦争を前にわたしたちが必要としているのは地政学ではなく、精神病理学なのだ。あるいは精神病の地政学である。
ここに賭けられているのは白人文明の、政治的、経済的、人口的そして最終的に精神的な凋落に他ならない。尽き果てる見込みを受け入れることができないまま、白人支配の緩慢な死滅に向けて総体的な破壊、自滅を選ぼうとしている。
西洋・未来・凋落
ウクライナでの戦争はヒステリックな軍事競争をひらく。境界の強化、国家暴力の増大。軍事演習こそは西洋の陥った老年性カオスの症候を示していた。
2022年2月23日、ロシア軍がドンバスに足を踏み入れたとき、前米大統領にして次期大統領候補でもあるトランプは、プーチンのことを平和維持の天才と評した。合衆国もまたメキシコ国境へ同様に米軍を派遣すべきだという含意がある。
トランプの醜悪さの意味するところは何だろうか。その妄言の核心にはいかなる真実があるだろうか? ここでの問題は西洋なる概念そのものだ。
しかし西洋とは誰のことだろうか?
仮に「西洋」という語の地理的定義を採れば、ロシアはそこに含まれない。しかし人類学的および歴史的な問題としてその語の意味をとらえれば、ロシアこそ他のどの西欧諸国にも増して西洋なのだ。
西洋は斜陽の地である。だがそれはまた未来への強迫に囚われた地のことだ。この二つは一つのことに他ならない。熱力学第二法則を宿命づけられた有機体にとっては(個体としても社会的身体としても)未来とは衰退を意味するのだから。
それゆえ私たちは、未来派と退廃のうちに統合されているのである。錯乱的な全能感と、絶望的な不能感と。私たち西欧諸国の西洋人と、広大なるロシア祖国の西洋人と。
トランプの発言は、以下のことを単刀直入に告げたのである。ロシア人ではなく、南半球の人民が敵なのだと。何世紀にもわたって搾取したあげく、この惑星の豊かさを分けろと今や私たちの土地へ移住したがる人々。かつて屈辱を与えた中国、私たちが強奪したアフリカが敵であると。偉大なる西洋の部分としての白人ロシアではない。
トランプ主義者の論理は白人優位の人種差別に依拠しているが、ロシアとはその最果てにおける要塞なのである。
他方バイデンの論理は自由な世界を防衛するというが、大量虐殺と何百万人もの奴隷船という出自からして、それは不可避的に組織的な人種差別に基づくものだ。バイデンは大いなる西洋を解体してロシア抜きの西欧をとるわけだが、それは己の身体を引き剥がし惑星のすべてを自殺に巻き込む運命にある。
西洋を、未来への強迫に囚われた支配的人種の圏域として定義してはどうだろうか。時間には膨張しようとする衝動的傾向がある。経済成長、蓄積、資本制。この未来への強迫こそが、まさに支配マシンの燃料なのである。具体的な現在(歓びや肉体の休息)を、抽象的な未来へと注ぎ込む(投資する)のだ。
おそらく私たちは、マルクスの価値分析の基礎を少し再定式化して以下のように言える。交換価値とは、明日交換しうる(貨幣形態のような)抽象的形式のために、現在(の具体的有用性)を蓄積することに他ならないと。
こうした未来における固定化は、決して人類の認知様式に自然なものではない。ほとんどの人類文化は時間というものの循環的知覚、あるいは現在そのものの超えられない拡大に依拠しているのだから。
未来派とは、美学的なものを含む全面的な、諸文化拡大の自己覚醒である。だが未来派には相異なるいくつかの分岐が見られる。
未来への強迫の含意も、ロシア文化における神学的・ユートピア的な圏域と、欧米文化における技術的・経済的な圏域で相異なるところがある。
フョードロフの宇宙主義やマヤコフスキーの未来派には、マリネッティの狂信的な技術支配やアメリカのイーロン・マスクのようなその亜流には欠けた、終末論的な息吹がある。だからこそ西洋史の終末がロシアの手に委ねられて、現にそれを私たちは目撃しているのかもしれない。
ナチズムは遍在する
パンデミックの敷居をまたいで、ひらかれたパノラマは戦争だった。ナチズム対ナチズムの。ギュンター・アンダースは1960年代の著作『時代おくれの人間』ですでに、ナチズムを育むニヒリズムはヒトラーが敗北してなお尽きることは無いことを予見していた。人間の意思に対する恥辱をもたらし無力化する技術権力倍化の帰結として、それは世界の舞台に回帰するだろうと。
目下私たちはナチズムの再出現を、容赦ない老衰に憤慨することしかできない白色人種の狂気じみた身体の精神的政治的形式として目撃している。カオスの伝染はグローバルな生政治的インフラを形成する諸条件を生み出したが、また物体のカオス的増殖が制御不能に陥って無秩序な崩壊をもたらし、死に至る恐怖で知覚にパニックをもたらしている。
西洋は死というものを抹消してきた。未来への強迫とは両立不可能だからだ。老いることを見ようとしないのは、拡大と矛盾するからだ。しかし今や世界的に北半球の支配的文化が年老いるのは(人口統計上も文化的にも経済的にも)スペクトルとして現前しているのに、白人文化はその事実を受け入れるどころか考えることさえできないでいる。
だから(バイデンとプーチン双方の)白人脳がここで老年性痴呆症による発作的な癇癪に突入したのだ。その最も放埒な症例として、ドナルド・トランプは誰も聴きたくない真実を告げる。プーチンは我々の最高の友だちなのだと。彼が人種差別的虐殺者であることに疑いはないが、われわれもまた劣らないのだ。
バイデンは年老いた人々が身体的タフさ、精神的エネルギー、知的能力の喪失に気づいた時に感じる無力な憤激を表出している。次の段階には枯渇して、終には死滅することだけが安らかな見込みである。
西洋文明の断末魔。ロシア、ヨーロッパそしてアメリカにおける痴呆脳のもたらす殲滅の暴力から逃れて、果たして人類は生き延びることができるだろうか?
ウクライナへの侵略がいかなる展開をするかにかかわらず、たとえ領土の安定的な占領になろうと(可能性は低い)あるいは欧米の供与した軍事装備をも破壊し尽くした後ロシア軍が引き上げるにせよ(十分ありうる)この対立は、ふたりの老家父長いずれかが敗北したところで解消できるものではない。決着がつく前に引き上げると合意することは、どちらにも不可能なことだ。それゆえこの侵略は、傾向的にはグローバルな世界大戦の(潜在的には核戦争の)ある局面をひらいたのではないか。
いま現れて未だ答えのない問いは、何世紀にも及びヨーロッパ、ロシア、そしてアメリカの傲慢と暴力、搾取にあえいできた非西洋世界はどうなるのかという問題である。
フィレンツェで開催された移民問題をめぐるカンファレンスにマルコ・ミンニーティを話者に呼ぶというのは、多かれ少なかれユダヤ人問題についてアドルフ・ヒトラーを講師に招くようなものだ。
西洋がもう一つの西洋に対して仕掛けたこの自殺的な戦争で最初の犠牲者は、ふたつの西洋の錯乱のせいで、戦争など欲してはいないのに間違いなくその帰結を被る人々である。
ヒューマニティーに対する最終戦争の幕が落とされた。
ただ私たちにできるのは放棄すること、恐怖を思考へと集合的に転換し、不可避のものを受け入れること。そうすることでのみ予期しえぬ出来事を生起させうる(平和、歓び、生の)余地は生まれるから。