平岡正明の「犯罪=革命」論をめぐって

鼠研究会(1)

 

谷川雁の「原点」は「点」ではない。これは「マイナスの極限値」とも「互いの補足しあい、拮抗しあって渦を形成する楕円の二つの焦点」ともわれるように、双極的な下降の運動性そのものである。「始まりも終わりもなく、われわれをどこにも導かず、終止符などは絶対になく、段階すらもない。回転式象徴〔…〕それには真ん中しかなく、それはどんどん深くなる場だ。象徴は大渦潮であり、われわれを旋回させる」(ドゥルーズ)。この渦巻く運動=線が「原点」であり、それは「どんどん深くなる」。谷川的にいえば「深淵もまた成長しなければならぬ」。同名の文章はこの成長する「深淵」を「絶対の深淵」と対置させていた。「絶対の深淵」。すなわちエックハルト=シェリングの「無底」や西田の「絶対無」ではない「無限への下降」。下降が生みだす「楕円の二つ」の双極性を谷川は反復しつづけた。ときにこれは世界統一権力という極大と差別という極小での「所有」としてあらわれ、あるいは「二重構造」論となり、それは最終的には発生と消滅の差異として表現された。生命は自然の破局であり、そしてそれによって破局性としての自然をしめす。身体とはこの双極的な力の抗争によってたえず変身しつづけるダイアグラムである。後期の谷川はこの帰結として「人体交響楽」において身体と言語を再編成することから権力の死滅を導出しようとしたのだが、これは同時に大正行動隊=退職者同盟の闘争をやりなおすことでもあったはずである。(以上はHAPAX14号の谷川雁論の要約と補遺でもある)

 

平岡は力の抗争としての身体を思想の基底においたことによって、そして谷川雁の秘められた「深淵」を「成長」させたことによって雁の無二の継承者である。彼は一九六〇年の安保闘争を領導して崩壊したブントの総括として六一年に犯罪者同盟を結成し、その綱領的な文書として六二年に「犯罪の擁護」を書く。「犯罪=革命論」は平岡の主題となって生涯を貫通する。犯罪革命論は身体と暴力への不可能な讃歌であり、同時代のあらゆる底辺からの叫び、そして反植民地闘争、反精神医学などと共鳴する、この列島における68の精華であるが、これはいくつかの段階をへて更新されていった。サドとベッカリーアを引く「犯罪の擁護」において犯罪はテロル、もしくは革命的暴力の前段である。「犯罪者は階級社会の悪と矛盾を肩におい、わが身の狂気にその矛盾を集約する。(略)彼は改良にも超越にも身を置かず、即自性そのものにとどまり、かくして時代の意味を正面からひきうけるのだ――あらゆる犯罪は革命的である」。ただし多くの誤解とは逆に平岡の「あらゆる犯罪」は極めて限定的である。ここに資本家の犯行や〈ホワイトカラーの犯罪〉が含まれることはない。六三年、弾圧にさらされた『赤い風船あるいは牝狼の夜』に寄せられた「韃靼人ふう」ではこう書かれる。「犯罪革命は、プロレタリア権力の胎内でうまれるあらたな歴史的慾望にもとづいた、革命の、さらなる広汎化、すなわちより遅れた層を行為的に革命の熱源におっぽり込めと主張するところの、過渡的な要求である。だがそれは、現状において、革命を進歩のとりあげ婆あと思いこんでいる意識から、永久混沌の意識へ移行するための、準備的な序曲としてあらわれる。(略)このような理由で、犯罪革命論は、かならず犯罪者の判断からはなれた、先験的な判断の公準をひきいれることになるのだ」。

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六〇年安保闘争後のブントの分解過程で平岡は「革命の通達」派に接近していたが、同派の中心であった長崎浩は後に六〇年闘争が近代への叛乱であると同時に戦後政治過程を終焉させて「国民」を成立させて「国民革命」であったと論じている(『叛乱を解放する』)。ブントは史上初めて「国民」を拒絶した左派であり、それゆえ戦後を破産させながら同時に「国家」を成立させたことは逆説的だが、これこそがネグリを超えた「構成的権力」の本質である。安保ブントは日本共産党の二段階革命論にたいして日本資本主義が帝国主義として自立したことをもって一段階革命を路線化したことは周知のとおりである。このとき、日本帝国主義が自立していたのか、従属していたかは重要ではない。ブントがそう認識することによって国家を打倒の対象としてせりあげたことが決定的なのだ。これは旧左翼の議会主義革命路線に対する実力闘争の復権をともない、大衆の暴力性を解き放ったのだが、それによってブントは国会前で大衆に乗り越えられた。新左翼は登場早々にして自らが生み出した「国民国家」と自らが解き放った大衆のアナーキーの双方に挟撃されることになる。それこそがその後の新左翼の運命を規定したはずである(2)。「国民国家」と大衆のアナーキーの分裂的展開は戦後の闇市のアナーキーが「八月革命」の虚構を成立させたことの反復である。戦後闇市を総括して後に平岡は書いた。「それやこれやは、すべて権力が崩壊したので身体が露呈された、という命題につきる」(「官能の武装」一九八九)。権力が崩壊すると身体が露呈する。これはドゥルーズ=ガタリが革命とは機械が構造を凌駕する状態であると定義した事態である。

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平岡は六〇年を「都市機能を停止させる都市革命」として総括し、山谷暴動をここに組み込んだ。これは他にはない視点である。六五年に「犯罪者同盟」の総括として書かれた『犯罪または革命をめぐる諸章』における「犯罪=革命」論では下層民が前景化する。このとき、犯罪=革命論は都市革命論となる。都市機能の停止が「身体」を、そして都市の「身体」としての下層民を露呈させる。「最下層の人々の存在が思想の根底だ」とされる。「かれらの階級意識が低く、団結力が弱く(略)あらゆる左翼的言辞と実行がさじを投げだしたくなったときにも、かれらの存在は思想の根底である」。それゆえ「あらゆる犯罪は革命的である」というテーゼに「ただし間がさしたときである」が付記される。革命とは下層民の無意識である。これが平岡の犯罪革命論の第二段階をしめす。

この時期、「犯罪=革命」的であったのは平岡たちだけではなかった。たとえば赤瀬川源平がいる。「「犯罪者同盟」というものがあると聞いたときは、一瞬その名前に「負けた」と思ってしまいました」(『東京ミキサー計画』)と赤瀬川は語っていた。高島直之の要約によれば「赤瀬川ははじめ油絵を描いていたが、次第に主題と素材を変えていき、ガラスのコップを壊して貼り付けた作品や、タイヤのチューブやぼろき切れや金属作品を組み合わせた作品、パネルの上のコラージュ(貼りつけ)の作品を経て、模造千円札の作品にいたった」(『イメージからモノへ』)。「模造千円札」以前の「廃棄物や既製品といった実在する物質の世界」(中原佑介)とは「非プロレタリア化した下層民」(フーコー)の生の形式であり、すでにそれらの作品は異様な「犯罪」性を漂わせていた。「模造千円札」はその必然的な展開である。石川義正は国家にとっては「模造千円札」がテロルであり、それゆえその裁判は戦後の「大逆事件」であると指摘している(「芸術・大逆・システム」『政治的動物』)。「非プロレタリア化した下層民」は労働力商品たりえず、したがって価値を生産することはない。「模造千円札」は下層民の実存の言表であり、そのシミュラクル性によって刑法体系と私有制の装置としての国家を切り崩す(3)。だからこそ「大逆」なのである。六三年に書かれたテクスト「あいまいな海」においては対人ピストルを入手したスパイ団が登場する。「スパイ団には、私有財産制度否定に関して貨幣制度破壊の分野があり、偽札製造では相当精巧な技術をもっている」。千円札裁判の終了とともに赤瀬川は反芸術から撤退して、その関心はストリートのバートルビー的事物=超芸術トマソンへと移行するが、それは都市のなかに外部、全き無為としての事物を発見することだった。トマソンは交換不能な「下層民」のさらなる「下層」に位置し、その無用性と無為性において「大逆」の極限ではないのか。沢山遼と高祖岩三郎がそれぞれ論じるようにマッタ・クラークと赤瀬川のトマソンは近似している。マッタ・クラークはシチュアシオニストの影響下にあった。これは赤瀬川と犯罪者同盟の関係に対応する。そしてシチュアシオニストと犯罪者同盟はシュルレアリスムの庶子であることでも共通する。赤瀬川の「模造千円札」は「商品世界」への攪乱性においてシチュアシオニスト的だが、シチュアシオニストが拒否した第三世界革命=下層革命論を内蔵することでより不穏たりつづけている。トマソンは「模造千円札」の展開としてとらえるべきであり、赤瀬川は「非プロレタリア化した下層民」であることを深化しつづけたのである。この生存様態を赤瀬川は「蒼ざめた野次馬」と名づけた。「「どうも世の中には犯罪者というのがいるらしいねェ。」「なんだそんなことも知らなかったのか。地球上だけでも約三十五億人ほどの犯罪者がいる。」「ほう、ずいぶん大勢いるんだねェ。」「その内の約一億名ほどの犯罪者が日本に住んでいるのだ。」」(「オブジェを持った無産者」)。あらゆる犯罪が革命的であり、われわれはすべて犯罪者であるなら、革命はもうすでに起こっているこはずだ。ただしそれはすべてがトマソンと化し、何物とも交換不可能な「模造千円札」にあふれた「反社会」の到来であるだろう。

土方巽もまた「犯罪」的であった。「犯罪者の沈黙の中に何かcommon(共通)なものがあって、真直ぐに伸びた圧倒的な間違いがある」。六一年土方巽は「刑務所へ」でこう書きながら「犯罪舞踏」を告知している。この土方を極として六〇年代の街頭と地下ではあらゆるかたちでの「肉体のアナーキズム」が試みられた。「権力が崩壊したので身体が露呈された」のである。それを代表する「ゼロ次元」に端的なようにそこでは文字どおりの「肉体」が登場したが、それらは三島的な肉体の称揚とは対極にある。黒田ライ児によればそこで表現されたのは、「肉体の下部」を露呈させることで「都市の下部」をあらわにすることであり、それらは「犯罪性」でもあった。これを当事者たちの人間主義的=疎外論的な言説だけでこれらをとらえてはならない。「犯罪革命論は、かならず犯罪者の判断からはなれた、先験的な判断の公準をひきいれることになる」ことは表現にも適用されるからだ。土方の例外性はこの事態に対して自覚的だったことであるばかりか、その基底に「死の生成」としての身体(江川隆男)を見いだしたことにある。六三年、赤瀬川らは「主観や意識ではない、あるいは無意識の世界ですらない「もの」の世界」として「不在の部屋」展を開いた。高島直之によればそこで実現されたのは「認識以前の触覚的な世界に立ち返り、モノの存在を「存在するもの」として経験すること」(『イメージからモノへ』)である。街頭の肉体が体現していたのはこの「もの」であり、「もの」は「都市の下部」である。「もの」がやがて「もの」派へと引き継がれる。この「もの」派の登場と同じ六八年、中平卓馬らによるプロヴォーグが結成される(4)。この流れは六〇年安保の敗北から再生しつつあった新左翼の直接行動とも並行していた。中平が森山大道と出会った六四年、三派全学連が結成され、六五年、東京行動戦線はアンモニア爆弾を準備し、六六年、ベトナム反戦直接行動委員会は田無の軍事工場を襲撃した。そして六七年一〇月、佐藤首相のベトナム訪問阻止闘争において全学連は内ゲバ用に開発したゲバ棒をもって機動隊と市街戦を闘い、以降、街頭闘争が全面化する。これらをささえたのも「都市の下部」としての身体である。これを鼓舞した「第二、第三のベトナムをつくれ、それが合言葉だ」というゲバラのメッセージは武装化、すなわち「犯罪化」へのすすめである。暴力論はただ「犯罪」からのみ深化させることができるだろう。六〇年安保闘争が形成した「国民国家」化は「高度成長」のもとに国外と国内への本源的蓄積=収奪を拡大していった。これは表現者のみならず下層民における「肉体のアナーキズム」を変異させていったはずである。六八とはそれらによる地殻変動である。六八の街頭に全共闘として参加した三橋俊明はこう書いた。「石が私たちを投げてくれと私たちを誘っていた」(『路上の全共闘』)。このとき、「私たち」たる学生たちもまた石であり、棒ではなかったのか。あるいは「模造千円札」ではなかったのか。つまるところ、そこには「真直ぐに伸びた圧倒的な間違い」があった。「権力の正統性を崩すためには自らの正統性を手放さなくてはならない」(不可視委員会)。

六八年に金嬉老が、六九年に永山則夫が列島を震撼させ、他の誰よりも平岡を直撃した。最初の爆弾は金嬉老である。すでに「ジャズ宣言」で平岡はコルトレーンの中に谷川雁の「原点」と第三世界革命論の共鳴を聞き取っていたし、身近では東京行動戦線の発展形であるレボルト社が第三世界革命を宣伝していた。六七年一一月、平岡はテックで労働組合を結成し、谷川雁との対決を開始する。この闘争は六〇年の思想に対する六八年からの切断を象徴する。これらすべてが六〇年的思考としての犯罪=革命論の飛躍を要請した。その中心部を金嬉老が打ち抜いた。寸又峡事件が勃発したとき、谷川雁は社内放送で「金嬉老のようにお前たちも闘え」とアジり、平岡は暴力論をもってこれにこたえた。六八年四月に「下方の前衛について」、五月に「殺人論」が書かれる。金の蜂起とは「ただ一人の朝鮮人が、日本警察権力のみならず日本社会を敵にまわして、系統的に自分を極限状況においこんでいった個的規模の長征」であり、そこから「暴力を、いちど犯罪を通過させて革命にみちびく方向づけ」をさぐることが主題となる。このとき、ファノンと『ブラック・ジャコバン』のC・L・R・ジェームズがひかれ、これが第三世界革命の黙示としても導入される。ファノンの翻訳者である鈴木道彦らもまたこの事件に深く震撼されて、公判対策委員会の結成をもって実践的に関与していった。その経緯を総括した名著『越境の時』を読めば平岡との同時代性とまた差異はあきらかである。鈴木にとって金嬉老は倫理的な責任を問うものであったが、平岡にとっては金はその思想を戦術として血肉化しえた稀有なる革命家である。平岡は金嬉老への偏愛を最後まで変えることはなかった。たとえ金がその生涯を再度の「犯罪」でしめくくろうとも。

金嬉老の衝撃を平岡の革命論を更新させたが、犯罪=革命論として重要なのは永山則夫であったはずだ。極貧の中、網走で生まれて青森・板柳で育ち、「金の卵」として集団就職で上京して、以降、列島の底辺を彷徨した下層の少年は平岡の預言どおり「間がさしたとき」四名を射殺した。永山は六〇年以降の「犯罪=革命論」の進化を体現し、そしてそれを極限化させた。事件後、ただちに平岡の友人たちは永山が見た風景だけを撮った『略称連続射殺魔』を製作する。風景とはダイアグラム、すなわち「権力を構成する力関係の表出」である。この映画は風景をとることで事件を言表として再構成した。それによって永山、そして『略称連続射殺魔』は平岡に犯罪を論じるモデルを提供したのだ。こうして「犯罪は階級的復讐である」というテーゼとともに平岡は「時評」として犯罪の「研究」を始める。「俺の研究はしだいに一点に集中されるようになった。/それは、日本社会の二重構造は、二重構造の両端で火を噴くが、一方の火炎たる犯罪の六〇年代末期から七〇年代初頭にかけての連鎖的な噴火は、現下の情勢が一九四五年に螺旋的に回帰しつつあるということを、これまで戦後社会の水たまりのなかでは、だれも気づかなかったような異様なかたちでしめしていること、これである」。四五年の戦後闇市が回帰してきた。より正確にはあらゆる犯罪は本質的にゼロ地点への回帰であるだろう。「すべて権力が崩壊したので身体が露呈された」というときのその「身体」が見えるためには権力が崩壊する必要はない。権力の裂け目が見えれば充分である。この裂け目が「風景」と呼ばれた。

七二年の『あらゆる犯罪は革命的である』の「引首」は犯罪=革命論の総括にして最終的なマニフェストである。ここではそれまでの犯罪論が自己批判の対象もしくは過渡的なものであったと総括される。「犯罪の原理的、体系的研究は、ただ一つのことをわれわれに証明する。あらゆる犯罪は革命的である」。「犯罪学の体系とは国家意志のことだ。すでに意識の私有財産の最高次の形態が体系であることが革命家たちによってみぬかれている…犯罪を犯罪として認知するものは国家であるから、犯罪の体系的考察が周到に深まれば深まるだけ、犯罪学は国家の学である」。したがって「われわれの犯罪に関する記述はかならず非体系的であり、反体系的である」。犯罪はつねに「部分-生成」的、すなわち断片的であり、非共立的であり、それゆえその記述も断片化する。これは国家の全体性と非対称的をなす。

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「刑法体系は大衆のなかにいくつかの矛盾を持ち込むことを持って、その機能としてきた。そしてその矛盾の最たるものは、プロレタリア化した下層民とプロレタリア化しない下層民を互いに反目させる、というものだ」。「ブルジョワジーは、非プロレタリア化した下層民(略)の中に民衆蜂起の先鋒を認めたと思ったのだ」。こう語るのは平岡ではない。一九七二年のフーコーである。統治は下層民の分断を条件とする。この分断線が露呈し、ゆらぐとき、「民衆蜂起の先鋒」としての「下層民」が「犯罪」とともに登場する。「犯罪」は同時に「法」そのものを、また再生産の装置としての社会そのものを危機にさらす。「一つの社会的地平は、その葛藤や矛盾によってよりも、それを横断する逃走線によって定義されるのだ」(ドゥルーズ)。犯罪が社会を規定し、社会が犯罪を生産する(5)。犯罪は反社会的営為ではなく社会の凝縮であり、それゆえ社会の破局である。犯罪を廃絶するためには社会が解体されなければならない。犯罪はそれ自体、本質的に反人民的であり、時にファシスト的である。だから個々の犯罪は肯定されることはない。平岡にとって犯罪は批評=臨床の対象である。犯罪は主体と法の関わりを、すなわち「真理」を危機にさらすことで「裂け目」を開く。その時、この世界の身体は自らを「病い」としてあわらにする。この「病」を背負わされた「主体」にとって「治癒」とは「社会への復帰と社会自体の復帰」ではなく、別の身体になることである。犯罪は「あまりに人間的」であることによって「人間本性」を裏切る。犯罪とは「存在」への敵対であり、そこにおいてのみ「あらゆる犯罪が革命的である」。あらゆる犯罪は「人民が欠けている」という叫びであり、それによって革命的である(6)

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「犯罪=革命論」は実践に引き継がれた。永山は逮捕後、獄中で自身の「罪」を問うなかから膨大な知識を吸収して急速に革命家に転生していった。逮捕から二年後には「驚産党宣言」が書かれる。「自覚したルンペンプロレタリアとは、政治的諸目標を徹底的に破壊するテロリスト集団である。地下生活者の魂を発起し、あくまで地下組織を通じてドブネズミの如く都市を動揺せしめよ」(『人民を忘れたカナリアたち』)。矢島一夫もまた『独房から人民へ』で極貧に生まれ底辺に生きたがゆえに監獄においやられた自らの軌跡からその廃絶を訴えた。これらの先駆的な闘争の地平の上に一九七三年、「獄中処遇を改善する会」が、さらに七四年に「獄中者組合」が結成され、また七五年に「獄中の処遇改善を闘う共同訴訟人会」が結成され、それぞれが獄中者運動を開始する。獄中者組合は監獄の廃絶とともに「犯罪者解放」をかかげた。この理念はかたちを変えて死刑廃止運動へと受け継がれている。一方、犯罪=革命論が内包していた下層の狂気を暴動へと導く回路は山谷・釜ヶ崎の闘争によって開かれていった(7)

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「数年間の研鑽ののち、俺は犯罪評論家をなのるであろう」とも書いた。しかし実際のところ、七三年に『あらゆる犯罪は革命的である』の続編である『犯罪・海を渡る』のあと、平岡が犯罪論を書くことはない(8)。「〔都市市民社会における〕犯罪のニヒリズムと〔下層社会の犯罪の〕アナーキズムが、日本社会の二重構造の両端の青い炎と赤い炎であると承認したとたん」「その両者に背中あわせに媒介させるもの」として「汎アジア水滸伝の賊が見えてきた」からだ(「犯罪・海を渡る」」。『水滸伝』とは「盗賊の賛歌」である。「犯罪者は、窮民の、ルンペンの、浮浪人の流浪するプロレタリアートの前衛的化身であり、攻撃的な転化である」。だから「群盗世に満ちるときには幻の世界社会主義共和国が背びれを見せている」(「あねさん待ちまち水滸伝」『水滸伝』)。犯罪=革命性の極限においてコミュニズムを開くこと。これが六八年から七二年を経た平岡の転換である。『水滸伝』とは離接的な「群れ」の叙事詩である。賊としてしかありえない「非プロレタリア化した下層民」こそが「根底」である。そしてこの「根底」とは成長しつづける深淵であり、「下方」へ降りることだけがコミュニズムを可能にする。そこで問われたのは「犯罪」を下方へ向けて突き抜けていくことであった。そこでは社会のモラルにかわって反社会の倫理=義がただひとつの命法となるだろう。以降、平岡は歌謡曲を、新内を、浪曲を、落語を論じる。それらはすべてが水滸伝的実践であり、「賊」への賛歌であった(9)

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平岡は自らの思考と文体が本質的に喜劇的であることに自覚的であった。「俺の“思想全体”が冗談体系である」(『スラップスティック怪人伝』)。平岡によれば知性は、インテリ階級→道化階級→無頼階級という三段階をたどる。これはスピノザの三種の認識に見事に対応する。平岡が「あらゆる感情」を肯定したことはよく知られている。「憎悪が好きだ」と平岡は書く。しかし平岡は憎悪しながら笑う。同様に怨みながら笑い、慟哭しながら笑う。これは平岡が下層民の「平民芸術」に見出し、そして信じた歌=音楽の力でもある。喜劇とは共通概念であり、無頼=アナーキーとは「神への知的愛」なのだ。大澤真幸の要約によれば「悲劇は、普遍性を、否定することによって最終的に肯定し、喜劇は、逆に、普遍性を、肯定することを介して否定している。…このとき、普遍性を否定する力、それだけが真に普遍的なものとして残存することになるはずだ。神的暴力とは、この喜劇が内在させている否定性と同じものなのではないか」(『量子の社会哲学』)。この悲劇と喜劇の対象性は江川隆男のいう「対言」と「副言」に対応する。笑いは「部分-生成」の離接の効果であり技法であ理、大澤のいうとおり、「神的暴力」なのだ。この「喜劇」にははじまりも終わりもない。ただ「深淵」を渦巻かせるだけだ。われわれは「模造千円札」であり、「石」であり、「賊」である。(8月9日、8月15日更新)

 

 



(1)本稿はこれまでHAPAXに鼠研究会名で書かれたテクスト「暴動に関する12章」「ドブネズミたちのコミュニズム」「永山則夫について」「アソウ連合赤軍1977」などの続編であるとともに、それらの論議を更新するものであり、それらの反復と変奏がふくまれている。なお本稿は7月8日の「闘争」以前に書かれた。

(2)ブントの敗北を大衆への敗北ととらえた一部は黒田寛一の描く「未来の共同体」の先取りとしての「党」に魅せられてそこに合流はするものの、そこから分裂して中核派を結成する。中核派はレーニン主義を復活させることで、68年に至る街頭闘争を主導することになる。これに対して前衛性を放棄して大衆のアナーキーの方へ下降するのが平岡であり、SECT6である。ハイデガーによればレーニンは(レーニン自身の自覚とは別に)20世紀的なニーチェ主義の変種でもあった。これらをマルクスではなくニーチェ主義の分裂的展開と捉えることができるだろう。この分岐は党と大衆の問題ではなく「構成的権力」自体の双極性の問題としてとらえられる。

(3)絓秀実は『革命的あまりに革命的』であ「模造千円札」と宇野経済学批判であり、商品世界への批判であることまでは論じながら、その「テロル」まで迫ることはない。『革命的』は谷川雁、犯罪者同盟、レボルト社などはなかったことにされ、それらに代表される第三世界革命は共労党の戸田徹に集約されるという驚くべき「偏向」をあらわにしている。残念なことにこの「偏向」は絓のいくものすぐれた着眼を芽のままに終わらせることになった。

(4) 中平卓馬の闘争と変身については「気象的コミュニズムについて」を参照されたい。

(5)これらはすでにデュルケームが論じたことでもある。なおアガンベン『カルマン』によればシュミットは「行為をその結果に結びつけている因果的連関から罪をきっぱり切り離し」、ケルゼンによれば「制裁のほうが犯罪を生みだす」。意志と責任のパラドックスを切断するものとしてアガンベンは仏教の「カルマン」に依拠するのだが、これは以下で論じる平岡の喜劇性と無縁ではない。

(6) 平岡は谷川雁の「世界統一権力」を第三世界革命論をもって批判したが、この地点において意外にも接近している。

(7)「ドブネズミたちのコミュニズム」でふれた鈴木国男と船本洲治の闘争を見よ。また獄中者組合の闘争の「成果」としての日本赤軍ダッカ闘争については「永山則夫について」「気象的コミュニズムについて」「アソウ連合赤軍1977」でふれた。

(8)平岡らが支持した『水滸伝』の注釈者・金聖嘆については、渡部直己が『日本小説批評の起源』で独自の視点から高く評価している。渡部によれば金聖嘆は馬琴に影響を与えることで秋成から中上健次にいたる反宣長=反「もののあはれ」の系譜の偉大な先達なのだ。中上にとってもまた「犯罪」的であることと小説を書くことは同義であった。

(9)その中でも平岡は身体を武器とする思考を鍛えつづけた。たとえば『官能武装論』を参照。また平岡の営為をヒップホップに継承させようとした赤井浩太の平岡論は平岡の『水滸伝』的展開とみなすことができるだろう。80年代以降の展開は大谷能生『平岡正明論』が詳しい。

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