カオスの地政学へようこそ  フランコ・ベラルディ(ビフォ)

HAPAX
以下は「ILL WILL2022417日にアップされたテクストを訳出したものである。

 
あなたの裁きの時ではない」、フランシスは熱弁した、2020年のイースターの夜、誰もいない広場から、神に語りかけた、「なにが重要でなにが消滅するのか、なにが必要でなにが必要でないか、それを決めるわれわれの裁きの時だ。」
──マルコ・ポリティ
 
 

内なる敵

 
 戦争のロジックは恐ろしい。
 戦争の記号学においてあらゆる恐ろしいニュースは──たとえフェイクニュースですら──効果的である。憎悪と恐怖を生み出すからだ。もしアメリカがファルージャにリン弾を落としたとして、あるいはロシア人がブチャで非武装の囚人を殺したとして、なぜ憤慨するのだろうか?われわれが話すべきは戦争犯罪についてだろうか?しかし結局のところ戦争はそれ自体が犯罪、諸犯罪の自動連鎖である。
 答えをださなければならない問いとは、「誰にこの戦争責任があるのか?」である。誰が戦争を望み、刺激し、武装化し、解き放ったのか。プーチンにが率いるロシアのナチ-スターリニズム──これに疑う余地はない。しかしプーチンではない他の誰かがこの戦争を強く望み、そして積極的に育もうとしていることは、誰にでも明白である。
 もしも二月にEUがラブロフの要求の議論のため国際会議を開いていたら軍隊(戦争機械)を止めることができただろう。しかし実際には、火に油を注ぐことが優先されてしまった。ロシア側との協議に参加したウクライナの代表は、率直にこう述べた。「驚いた。なぜNATOは戦争になれば介入しないなどと早々にも宣言してしまったのか?それがロシアの侵攻を進めてしまった。」
 戦争に参加する人間は考えられなくなる。神経―認知科学的に見ればあきらかなように、戦争を行う人々には考える時間がない。彼らは自分たちの命を守らなくてはならないし、自分たちの命を狙う者を殺さなくてはならない。そして何よりもまず、彼らは内なる敵を沈黙させなければならない。
内なる敵とは人間としてあることの感性、つまるところ良心のことである。第一次世界大戦 中、フロイトが戦争神経症についてのテキストで書いているとおり、内なる敵は、疑い、ためらい、恐れ、敵前逃亡として現れる。内なる敵とは、考えるための意志のことである。
 そして今日においては、あらゆるメディアや政治システムは一心不乱に内なる敵を打破しようとしている。フェデリコ・ランピーニは「ラヴェニール」のディレクターがプーチンの肩を持っていると非難したし、イタリアのメディアシステム全体が法皇の言葉を規制、そしてフランチェスコ・メルロは未だ迷っているものを私刑せよと促している。
 私たちはすでに公的言説による軍事化プロセスの最先端にいるうえに、イタリアの政治、ジャーナリズム階級は従順にも脳みそをナショナリストの集団に託しているのである。その集団のなかでは、極右ジャーナリストの声とトロキストやロッタ・コンチヌアのバックグラウンドを持つ知識人たちの声を判別することが困難になってしまう。
メディアのシステムはこの二年間で際立った変異を遂げてきた。パンデミックを通じてメディアシステムは常に医療のために駆り立てられた。私たちは一日中救急車や緑のエプロン、換気のための装置を見せられ、ある時期からはワクチン接種や注射器、さらにまた追加の注射器、ワクチン接種といったものを、不安を引き起こすような圧力的な、不断の流れのなかで見させられてきた。この医療メディアによる包囲網は、決定的なメディア変異が起こる前触れだと誰かが予測した。いまでは四六時中、私たちはぞっとするようなスペクタクル、ばらばらになった身体、絶望的でいたいたしい母たち子供たちの戦いを目の当たりにしている。四六時中、コメンテーターや専門家たちの声高な叫び声を聞き、将軍たちが戦争を呼び求め、そして内なる敵を沈黙させることを呼びかけるのを聞いているのだ。
 
 

もしキエフに住んでいたらどうするだろうか

 
 私もこう思考を巡らした──もしもキエフに住んでいたら何をするだろうか?幾日もこの問いに私は悩んだ。私の父はイタリアでファシズムへのレジスタンスに参加したのだった──私は自分にこう言ってみた。「ウクライナの人々のレジスタンスを支援することが私の義務なのではないだろうか?ロシアの侵攻によって危機に晒されている価値のために戦うべきではないのか?」
 ここで、二等兵だった父がパドヴァの兵舎から逃げ出さなければならなかった時に彼はとくだんアンチファシストではなかったことを思い出す。父はファシズムの問題など一度も考えたことなどなかった。イタリア人の大多数にとってそれが絶大なマジョリティであったように、彼にとっても疑う余地のない自然な状態だったのだ。9月8日にイタリア軍が解体されたとき、父は他の人々たちとおなじように逃げ出してボローニャの家族の元を訪れたが、父の両親は空爆を恐れ街から逃避していた。そうして父は兄弟とともに理由もなくマルケ地方へと逃げることに決めた。そこで彼らは他の疎開者たちのグループを見つけ、パルチザンたちと出会い、彼らに合流した。自らの命を守るために父はパルチザンになった。パルチザンたちと語り合うことで、父はもっとも用意周到で寛大な者たちはコミュニストたちであると感じ、さらに彼らコミュニストたちこそが過去を総括することができて、未来への計画を持っているのだということを理解した。こうして父はコミュニストになったのだった。
 もしも私がキエフに住み、そこの誰かが私に自由なる世界、デモクラシー、西洋の価値、大文字で書かれた言葉を守らなくてはならないと説いたのならば、私は亡命するだろう。けれども小文字で書かれたすべての言葉=私の家、そして兄弟たちを守るためにレジスタンスに参加することもあるかもしれない。
 だから私には、自らに投げかけた問いにどのように答えたらいいかわからない──ウクライナのレジスタンスに参加するのか、それともロシア人兵士たちを撃つのか撃たないのか。私が確かにわかるのは、自由なる世界がウクライナ人にレジスタンスするよう呼びかけていることは資本化された条理であり、それは虚偽である、ということだ。虚偽とは、あのヨーロッパ人たちが見せ物を続けるよう駆り立てるためのレトリックのことである。
 
 
恥辱の進化としてのナチズム
 
 恐怖の乱痴気騒ぎがヨーロッパに解き放たれた、この数十年間のあいだにシリア、アフガニスタン、イラク、リビア、イエメンで解き放たれたように。しかしそれは、かつてはわたしたちとは異なった人々が住んでいた遠い場所でだった──いやというよりも、正確にいえば、わたしたちが憎んでいた、そして劣っていると思っている人々が住んでいる場所でだった。
 ウラジミール・プーチン──各国の大統領、実業家、そしてジャーナリストたちが機嫌を取ろうとも決してみずからの帝国的な使命、そしてスターリン的メソッドを隠すことなどなかったこの男がこの戦争を始めた。なぜならロシア人のマジョリティが過去30年の恥辱に反応したからだが、それはドイツ人のマジョリティが1930年代のベルサイユでの恥辱に反応したのとおなじ仕方である。
 ナチズムとは恥辱の発展──恥辱に対するアグレッシブな償還の約束──である。一方ロシア人が1990年代から苦しんでいる恥辱の深さについて知りたい人はSvetlana AleksievicのSecond Hand Timeをぜひ読もう。
 しかし、この本の見事に構成された6章に書いてあるように、「手のひら片方だけでは音はならない」のである、プーチンの手だけでは十分ではない。もう一つの手とは、ロシア人とウクライナ人の戦争を推し進めたジョー・バイデンの手だ。そうして彼は四つの成果を通じて金を手に入れることができた──政治的にEUを破壊する、ノルドストリーム2の建設を妨げる、自国民による選挙投票率を上げる、そしてロシアの敵を打ち負かす。
 二つ目までは申し分なく達成された。ノルドストリーム2の計画はドイツ政府によって停止、そのためヨーロッパはガスをアメリカ市場から、つまりより高くつく上に、そしていかなる状況においてもロシアからのガスと比べるとあきらかに面倒ななところから供給を受けなければならない。
 EUは政治的にNATOの意図のもとに従属させられ、連合の創始者たちが目指したことの真反対であるひとつの国家として自らを同定することを強いられた。EUは19世紀のナショナリストの強迫観念から抜け出すために生まれたのだが、2022年のはじめにNATOがEUをひとつの国家に変えてしまった。そしてEU国家はいまや、その他の自尊国家のように、戦火という名の洗礼を受けているのである。
 三つ目、四つ目については、事はより複雑である。なぜなら、55%のアメリカ人がバイデンの外交政策を認めていない(マジョリティが大統領に対して戦争を反対をしたことはこれまで一度もなく、ベトナムやイラク戦時中ですらなかった)。世論調査は戦争への反対が多くを占めた。賛意は、36%から44%へとあがったものの、まだ不十分である。民主党は11月の選挙で負ける可能性があり、その後の大統領選挙では共和党の候補者(どの候補者かはわからないが、ドナルド・トランプも含まれる)が勝利するだろう。
 バイデンが成し遂げようとした最後の成果──ロシアを打ち負かすこと──においてはさらに物事は複雑化する。ウクライナ人たちの険しいレジスタンス活動にも関わらず、ロシアは着手し始めたことを達成しつつある。とりわけウクライナ軍組織の解体、そして南部とクリミアの支配。ロシア人兵士たちは何千人も死に、将軍たちですらも戦闘中に倒れるが、プーチンはその事実をほとんど気にかけない。トルストイ、イーサク・バーベリ、アレクサンドル・ブロークを読んだ経験があるならわかるとおり、犠牲(サクリファイス)はロシアナショナリストの神秘である。
 それ以降、紛争がウクライナにおいてエンデミック化するということは予測に容易く、ロシアは経済的・社会的なカタストロフのフェーズへと突入していくだろう。しかしながら私たちはこの状況において、6000発の核弾頭を持つ国の内戦には、前代未聞のリスクが伴うことを自覚しなくてはならない。
 
 

楽園での生

 
 ある世論調査によれば、83%のロシア人が戦争に賛成である。私はこれを信用していないし、モスクワ由来の世論調査というのは信頼できない。けれども侵略行動はマジョリティの指示を受けている可能性はあり得る。
 また、少数派のロシアの若者たちは、さらなる拡大のための冒険のための序曲として、ウクライナ戦争がロシア人の魂の自己浄化であるというウルトラナショナリズムの思想に傾倒しつつある。「ウクライナに感謝。われわれがロシア人であることをふたたび教えてくれた!」イワン・オクロロビンスティンという間抜けは、叙情的な調子でこう高らかに語った。
 正教派スピリチュアリズムにはじまり、ドストエフスキーを経由して、二十世紀を横断し、ヴァシリー・グロスマン、そしてアレクサンドル・ソルジェニーツィンにおいて復活する殉教史の長い伝統がある。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の死にゆく兄弟の語りには、この不可思議な犠牲者たることの核心が凝縮されている。「母よ、嘆かないでください、人生は楽園なのです、そして私たちはみな楽園にいるのです、しかしそれを認めたくはありません、もしもそれを認識する意思をもってしまえば、明日には全世界のいたるところで楽園ができあがってしまうのですから。」
 ドストエフスキーが語るその楽園とは苦痛、冷淡さ、惨めさ、そして拷問のことであり、要するに十字架のことだ。ロシア正教のナリョナリズムが愛するのは苦痛であり、その苦痛において磔にされたキリストに近しいという証しを提示される。それは具体的な女性や男性を憎むようにまさに人民を愛する。「人間はなんと吐き気を催させるものだろう」、無意味さゆえ実行されなくてはならない無意味な犯罪を実行する前にラスコーリニコフはこう言った。
アメリカの無知がロシアのせん妄と衝突する。気楽な邂逅ではない。アメリカ人たち(いう までもないがアメリカ国内で政治やメディアの権力を持つ階級の者たちのことだ)は文化多様性を、搾取や服従されるべき、あるいは平手打ちで矯正されるべき後進性あるいは劣等性としてか理解することができていなかった。一方ロシア側の文化多様性は、救済的な普遍主義と、耐え忍びそしてかつ背負うという苦痛のカルトとが混在した縮減不可能なものとして存在し続けている。
ロシアの狂気とアメリカの無知がヨーロッパを、もう後戻りが困難であるような崖っぷちにまで引きずり込んだ。
 
 

「自由世界」をリードする国

 
 自由世界(大文字の「自由だ」)を引っ張っていく国では、警察はルーティン的に一日三人殺すが、そのうち黒人の率は不釣り合いに大きい。
2020年のジョージ・フロイド暴動後、黒人と左翼の投票を獲得するために民主党は、警察への予算を削減し社会状況の改善に多額の投資を行うことを公約に掲げた。もちろん、こんな公約が守られることはなかった。学生の負債の帳消しはなし、等々。それから警察の予算減縮もなし。反対に増額されたのだった。
 メキシコとの国境では、移民に対する拒絶がドナルド・トランプ時代のことを後悔させる水準にまで達している(しかしその時代はすぐに舞い戻ってくるだろう)。
 なんらかの理由で、バイデン支持は最低水準にまで落ち込んだ。カブールでの八月ののち、バイデンは、アメリカは世界でも不安定な国に敗北していながらも、ロシアには勝てるということを証明しなくてはならなかった。そのためバイデンはセルゲイ・ラブロフの度重なる要請を熟考することができなかった。セルゲイ・ラブコフは、ロシアは自国の安全保障、国境、ひいてはNATOが25年間追い求めた拡大について議論したいのだと繰り返して言っていた。
 自らの痛々しい無力さに反抗する老人たちがよくやるように、バイデンはロシアと正面から衝突することを決意し、プーチンとの真昼間の決闘に備えたのである。しかしいざ銃を抜くときになれば、ウクライナ人は取り残され、彼らはクレムリンのスターリニスト-ツァーリズムの犯罪者に直面しなくてはならなかった。
 ウクライナのレジスタンスを支持する西洋人たちは武器やメディアをサポートした。しかし、死にゆくのはウクライナ人彼らであり、そして彼らの持つ長い抑圧の歴史は、当然のことながら、ウルトラナショナリズム的な立場へと彼らを押しやった。
 
 

白人間戦争が新たなカオスの地政学を引き起こす
 

 白人(ロシア、ヨーロッパ、アメリカ)にとっての重大な精神的崩壊において重要な役割を果たすのは認知症―老人性痴呆症の精神病理学だが、それに加えて一体なにがこの戦争の戦略的動機となっているのだろうか? バイデンは断言している、自由なる世界、つまり西洋を守ることは必要不可欠であり、そして彼はふたたびそのリーダーとなるのだ、と。植民地化、暴力、システマティックな略奪、そして人種差別の500年の後に西洋を守ることは、困難になった。やがて分かるだろうが、ロシア-アメリカの白人間戦争へ進むという選択は、白人の衰退を促進し、そして崩壊させてしまったのだ。
 2月24日に始まったのは白人間戦争、つまり白人が白人と戦う戦争である。しかしこの戦争から新たなポスト-グローバル地政学が生まれるだろう──いや、すでに実際に生まれつつある。
 1989年に自世界が社会主義圏を打ち負かし、世界の民営化、ネオリベラリズムのfinancial impositionへの道を切り拓いた時代に、思想家たちはその新たな秩序が取り返しのつかない永遠のものなのか、それゆえあらゆる紛争、反乱、戦争を伴う歴史が終わってしまったのかと考えた。この点ではフランシス・フクヤマはすいささか軽率に、自由-民主主義の方はますます活性化し、民主主義と市場は無敵のペアであると語ったのだった。
 市場の鉄則と相まって、民主主義という言葉はすぐに無意味であることが明らかになった。4、5年ごとに自由なる世界の有権者たちは代表を選ぶことができる、しかし選ばれた代表たちは市場の法則を適用すること以外のことはできない、市場の自律的な論理は政治的意志によって損なわれることはない。
 こんなペテンが終わることもなく、2016年以降には民主主義は単なるジョークへと成り下がってしまった。
 フクヤマより少しだけ間抜けな奴が、文明間の対立の時代が始まったと記述するある本を書いた。サミュエル・ハンチントンによるこの本、『文明の衝突』は、大まかな見方をすればこの衝突の地政学には、彼の意見では、いくつかの(おそらく、7つ前後の)文明圏がお互いに対立すするというものだった。
 ある意味ではハンチントンの理論は、アイデンティティ(民族、宗教、文化的なアイデンティティ)を衝突する諸勢力のあいだの境界線として記述しており、かつアメリカがイスラム諸国との衝突を見越し、そしてやがて来る西洋と中国世界との衝突を見越している。ハンチントンはフクヤマほど劇的に間違ってはいないが、その理論は複雑なプロセスを矮小化している。
 自由民主主義の勝利は、社会主義圏の全般的な民営化、労働運動への全般的な圧迫と同時に起こった。その影響は、「社会文明」(social civilization)、すなわち政治的な規制や、とりわけジャングル的な自然法則を停止させる教育によってマジョリティの利益が保護されるという文明化の形態の乱暴な崩壊をもたらした。
 資本家の全体主義は、あらゆるものと一緒にパブリックスクールを破壊した。ヒューマニズムと平等主義を推進し人間の生に倫理的意味そして連帯感を刻み込んだ20世紀後半の教育システムは非人間的なもの、つまりネットワーク化された人間たちの認知活動に介入する巨大なグローバル企業の手に支配された逃げ場のないデジタル広告の普及的な暴力に置き換えられた。
 こうして史上もっともファンタジックな体制順応主義が生み出された。無知と広告業に対する迷信は、利益の負荷を共起させないあらゆる政治的規則、文化的形態を抹殺してしまったのだ。
 デジタル技術によって可能になった経済の完全な金融化は、抽象的なものの具体的なものに対する決定的な支配を達成した。
 金融資本主義は自らのオルタナティブなき自動化されたシステムのようで、不安定な労働者階級は連帯できない事が証明され、未来は自動化された現在のなかに決定的に包み込まれてしまったようだ。
 この意味においてはフクヤマは正しかった。歴史は終わった、精神的な悲惨さが猛烈な山火事のように広まり、主観性はマス的な精神-薬理学的な独裁と普及してゆくデジタル賞賛の元に従属させられた。
 そうしてカタストロフは到来した、2019年の世界規模の動乱(香港、サンチアゴ、キト、テヘランの世界的なエスタリード)後に、ウイルスと共に。
 そしてそのウイルスがいままさに世界の舞台を混乱させ、精神的崩壊の状況を作り出した。
 このカオスは商品の流通や世界の大部分で労働の連続性を堰き止めたが、いまでは戦争による脅威が生産―流通―消費の具体的な連鎖を狂わせ、原子力の脅威は鬱状態の想像力をさらに掻き乱す──まるで目が覚めたときにそれが現実だったことを思い出させる悪夢のように。
 
 

復讐

 
 白人間戦争は逆説的にも世界を見えない線に沿って分割させるが、その分割線はイデオロギーや地政学とは少しも関係がなく、むしろ植民地化の歴史や人種的搾取の歴史に由来する。
ロシア侵略を非難する案が国連に提出されたとき、最も人口の多い国々──インド、パキス タン、インドネシア、南アフリカ──は中国と共に棄権した。史上はじめて、植民地時代の分断線に沿って走る地政学的事態が出現しているのだ。過去の白人の諸帝国が衝突、あるいは諸勢力に加わるなかで、非-白人の世界の萌芽が見えている。
 ロシアはワイルドカード、狂人であり、白人世界を解体する機能をもつ内部要素である。
パキスタンは、アメリカの圧力、中国の支配的影響のあいだで圧搾され、イカれてしまったまた他の要素かもしれない。イムラン・カーン首相はアメリカの干渉を徹底した調子で非難し、ナワーズ・シャリーフは彼を国政から追放をした。しかし、パキスタンでの戦闘は始まったばかりであり、やがて加速するなかりだ。
 その他にもイカれてしまう要素はどこにでも見つけられるし、わざわざ名をあげる必要もない。
 その他の要素もイカれてしまうだろう。
 このウクライナ白人間戦争は南部と北部を分断するプロセスのトリガーであり、われわれはその幕開けを見ているに過ぎない。
 私はときおり毛主席のことを思い出す。私は彼のフォロワーになったことは決してないが、彼は面白いことを言っている。1960年代、毛沢東は農村が都市を包囲するという理論を打ち立てたのだった。
 この見解を強く提唱したのは毛沢東の信頼する従者である林彪(その数年後、1971年に撃墜死した)だったが、「偉大な舵取り」によるこのヴィジョンは、工業化された世界の労働者たちと周縁の国々のプロレタリアや農民たちとの戦略的な同盟として理解されなくてはならない。共産主義インターナショナルのスローガン「万国の労働者よ団結せよ!」はマオイストたちによってこう再定式化された、「プロレタリアと抑圧された人々よ団結せよ!」
植民地化が終わりつつある時代、解放運動は帝国主義者たちをはねつけ、1975年のベトナム戦争におけるアメリカの敗北は解放のプロセスの最高潮のように思えた。
 しかし物事は望んだようには進まなかった──一度は打破された植民地主義は、経済的統治、採掘主義、そして文化的植民という新たな形態を手に入れ復活した。
 「農村は都市を包囲する」という文言は、植民地化によって疲弊した人々と工業労働者との同盟関係という戦略的なオルタナティブとして再考することができる。すべてがうまく進めば──毛沢東はこう言った──北部の労働者と南部の農民たちとの同盟関係が現れるだろう。もしなにかがうまくいかずに北部の労働者たちが倒れたのならば、南部の農民たちは帝国資本主義に飲み込まれてしまうだろう。
 カリカチュア的な簡略化をお許しいただきたい、しかし毛沢東はジョークのつもりなどなかった。長征はまさにそのように進んだ──農村は都市を取り囲み農民専制となった。
中国人は19世紀半ば、欧米列強の台頭により天帝の帝国が、150年ものあいだ周辺化され、恥辱的な扱いを受けたという記憶を持ち続けている。そして21世紀には、植民地主義により貧窮化され二世紀にもわたって搾取と屈辱に晒された民衆が、さまざまな方法で白人メトロポリスを取り囲み始めている──移民、民族主義的部族主義、世界レベルにおいて優位な価値機能を持つドルの役割の破壊。
 工業労働者のコミュニズムがネオリベラルによるグローバル資本主義に打ち負かされてしまったことが原因で「良き」戦略的な見通しは失敗に終わった。従って第二の、より邪悪なもの、すなわちナショナリズムの復活、復讐だけが残る。
 いまのところ、「自由世界」とロシアとの衝突を伴いながら復讐は白人世界でのみ起こっている。次章では、過去数世紀に服従させられた諸勢力が攻撃的に再び現れることだろう。
西欧は、中東だけでなく欧州の郊外でも再爆発を起こすべく準備しているイスラム主義者の敵意が持続するのを助長するこの二重攻撃から生き残ることができるのだろうか。
 労働者階級のインターナショナリズムのみが、過去と現在の植民地主義を共起させる衝突を地球規模の大量殺戮へと帰結するのを防ぎえた──西側の工業労働者たちや植民地主義によって抑圧されたプロレタリアたちは、同じ共産主義のプログラムの中で自分たちを認識している。しかし、共産主義は打破されてしまった、われわれはいま、何の名目もない飛び入り自由の戦争に向かい合わなければならない。
 
 

 
 この全面的な崖っぷちの状況において私たちはヨーロッパの崖っぷちの深化について想像をめぐらさなくてはならない。昨日には思いつきもしなかった経済の混乱と社会の貧窮化が起こったとき、社会の崩壊のプロセスはどのように凝縮するのだろうか?誰が起こり得るヨーロッパ人の反乱をリードするのだろうか?
 今のところ、ナショナリズムとサイコティックな勢力が支配的になることは間違いではなさそうだ、そしてフィレンツィ・シャンドールが1918年の論文で集団的精神病の治療可能性を否定したことが想い起こされる。
 今日の課題。個人という限界を逸脱し、集団的な心の領域にまで影響を及ぼす精神病をいかに対処すればいだろうか。
 こういった問いは、いま一貫して答えられるようなものではないがしかし差し迫って問われなければならない。なぜなら社会的主観性は鬱病の流行と攻撃的な集団的精神病のあいだを揺れ動いているからだ。そしてこの病的な枠組みに対する有効な治療法だけが、末期症状のホロコーストを回避することができる。
 有効な治療法を見つけること、それはいま現在に応えようとするあらゆる思想の課題である。

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