アマゾンから「ぼっちコミューン」まで   書評 ハーポ部長『アマゾン始末記』      


長谷川大

「シャーマニズム」オタクを自認する著者は、原因不明の鈍痛と医者から処方されるベンゾジアゼピン系抗不安薬の依存に悩んでいた。はそこからの離脱のためにアマゾンへアヤワスカという植物による治療のために旅立つ。そこには多くの薬物依存に苦しむ人々のために「自分の身体を実験台にしよう」という決意もあった。しかし現地でのアヤワスカ経験は治癒というより異次元の魔術的世界への導入であり、稀有な体験は治癒をもたらさない。かくして帰国後も彼の遍歴はつづく。弁護士に妄想的な相談の電話をかけ、精神科医に見放される。見知らぬ隣人、父や親しい人たちの死への対面と向き合い、最後に宮古島のユタの教えにしたがうことで病いは癒える。「ベンゾ薬を断薬したが、依然として日々の体調の悪さを感じて生きている。だが、それがどうしたというのだろうか。肉体を持つとはそもそもそういうことではないか。そこに執着して、「苦」という物語を勝手に生み出しているだけではないのか。あちらの世界を旅したことによって、そういったメタな視点が芽生えてきた」。
 

「自分の身体を実験台に」することとは「身体をもつ」ことを知ることであった。それはまた本書がひそかに共振させるアルトーの教えでもある。高祖岩三郎は自身のペヨーテの体験をもとにアルトーを論じて、そのタラウマラにおける実験を「世界の全体化」に抗する「地球身体」の叛逆であり、これを「先住民」化の運動の中に位置づけた(「先住民のペヨーテ/アルトーのペヨーテ」『アルトー横断』)。ここで主人公がアヤワスカに求めるのも「地球身体」との混交であり、シャーマンとは「大地」の媒介者である。コミュニズムとは「地球身体」と「世界の全体化」を協和させる、もしくは前者に後者を包摂させるプロジェクトであり、その視点からすればフーリエやマルクスにいたる社会主義とスピリチュアルな探究は同一の運動である。だから覚醒において終末を加速させようとしたオウム真理教の錯乱的な破壊行動もまた蜂起であったとみなしうるし、本書のような探求も革命への試行である。

 

 

シャーマンを日本人がアマゾンに求めるのは、われわれが大地から切断されているからだが、その切断をもたらした力はアマゾンにまでおよび、シャーマンたちを金銭と虚名にまみれさせていた。本書に収められたふたつのシャーマンへのインタビューは主にこの実態をめぐるものであり、この探究の悲しい成果のひとつである。それ以上に重要な核心は、アヤワスカが彼を覚醒させたが治療はしなかったということだ。もし治療と覚醒が一致したなら、これは「地球身体」による勝利の物語として見事に完結したことだろう。しかしこの旅が彼に教えたのは、「あちらの世界」の実在であるとともに、そことの不協和において「身体」があるということであった。「わかったことは、アヤワスカを飲んで、すごいヴィジョンを見ることが重要なのではなく、それによって何を感じ、どう解釈するかが重要ってこと」。

 

アルトーにとってペヨーテは別の生の開示として「死の経験」(江川隆男)であった。著者にとってのアヤワスカもまた「死のレッスン」の開示である。アマゾンからの帰還以降、彼はさまざまな死と向き合うことになる。ハトを轢き殺し、隣人の腐乱を通報し、父の死、そして年上の友人の死、さらにぺぺ長谷川の死を受けとめる。この「死のレッスン」が言葉になるような何かを彼に与えることはないが、これらの死もまた著者を「肉体を持つ」ことへと導いていたように思われる。そしてこの遍歴が彼を新たなヴィジョンへと導く。「アマゾンから日本に帰ってきて」から川の存在が気になり始めた彼は、自分のよく歩く道が「だいだらぼっち川」の暗渠であったことに気づくのだ。そしてそこに独身者の共同体として「ぼっちコミューン」を立ち上げる。そこから庭を植物で埋め尽くすのだが、その先には宇宙とのつながりがある。これはただ個人のヴィジョンに過ぎないことは、自覚されている。だがヴィジョンをもつこと以上の何があるというのか。これをひとつの「革命」とよぶことに何のためらいもいらない。本書は「地球身体」をめぐる真摯な革命のドキュメントである。


                      『アマゾン始末記』(ヒビノクラシ出版)

 

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