不可視の賭場


R.G.

賭博はそれ自体が法であると同時に法の根拠としての正義でもあり、法と正義によって戯れる賭博者たちは、不法の秘密に触れ、法律の無底性という事態を直観することになる。法律が賭博を禁止してきた所以である。たまさかに統治が賭博を合法化するのは、賭博の神的暴力に対して統治が譲歩しているのであって、賭博と法律との間の緊張状態を緩和することによって、法律の無底性が、つまり正義に適わない法律が制定され執行されているという事態が、白日の下に曝されるのを阻止しようとしているのだ。法の支配が死んで、ただ、統治があるのだということを、汗のごとき譲位の綸旨と治安維持法の復活が告げている。
この期に及んでリベラルたちは、たとえば横浜にカジノが要るか要らないかといったような論点、あるいは、入場制限がどうの、業者の選定がどうのというような話題で政策論争だの熟議だのをやり続けるつもりなのだろう。立憲主義がここまで踏みにじられてもなお、リベラルたちは民主政治の内部性の形式の中でしかものを考えていない。しかし、それよりも驚くべきなのはリベラルたちのほとんどが今現在横浜にカジノがないと信じていそうだということであったりする。
横浜のカジノはこれまでもずっと存在していたし、今現在存在しているし、これからも存在し続けるだろう。これまで横浜のカジノで遊んできた人々は、新しくできるかもしれない入場制限があったりするような、その上おにぎりが有料の合法化された表の世界のカジノでわざわざ遊んだりすることはないだろう。
ジェントリファイされた表カジノで入場税やおにぎり税や唐揚税を支払い、ルーレットで負け、平日の労働によってカード破産の危機をなんとか乗り切りながら、実のところカジノの経営を下支えし続けることになるのは、間違いなくリベラルたちだろう。いくら反対を唱えようと、安全安心な空間であることを法律が保障しはじめるや否や、そそくさと遊びにいってしまうのがリベラルの振舞いというものである。リベラルたちは不法の秘密に気づかないことによって、法の支配の殺害に加担しつつ、統治のロジスティクスを強化するばかりである。
無料のおにぎり以上に効果的な、リベラルたちを不法の秘密へと誘うエロティックな技法を発明することが、割拠する者たちに求められている。 

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