『カフカ』の新訳を祝す



NEZUMI
いまさら書くこともはばかられるほどに自明な話だが、ドゥルーズ的な政治のはじまり、それは動物の死である。『千のプラトー』、『フランシス・ベーコン』、そして『哲学とは何か』を見よ。「ABCD」も「ANIMAL」ではじまった。「一匹のネズミの断末魔」を前にする情動においてマイナリティへの生成変化ははじまり、そこでこそ「人民は欠けている」という叫びがうまれる。その核心をラプジャードは見事にこう敷衍してみせた。「生成変化とは諸々の力能が、共通の運命にとらえられていることを感じることなのだ」。死にゆくネズミの運命はわたしの運命である。「マイナーと呼ばなければならないものは、存在する権利を一切もたないものであり、合法性を剥奪された存在様式」であり、それによる闘いとは合法性を獲得することではなく、非合法性的な生を擁護すること、同時に法=根拠そのものを弾劾することなのである。これらのいっさいはカフカの主題でもある。
このたび、見事な新訳でドゥルーズ=ガタリの『カフカ』が甦ったことを言祝ぎたい。カフカは「動物の死」だけを描いたといっても過言ではない。「カフカの孤独は、いま現在、歴史を横断するすべてのものにむけて彼をひらく」。これは「コミュニズムの絶対的孤独」(「HAPAX」8号)そのものである。そこでは「文学は、ただ来たるべき悪魔的勢力として、または構築すべき革命的な力として存在するという条件において自らを表現する」。生成変化とは孤独の徹底においてのみ実現する集団性への逆行である。これをわれわれは「分裂的コミュニズム」(同上)と名づけた。カフカこそは分裂的コミュニストであり、『カフカ』はその確証に溢れている。

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