地震と革命
NEZUMI
綿野恵太が「読書人」の時評で栗原康をとりあげながら「地震は革命なのか」と問いかけている。このブログで栗原を評価してきた者として、応答しておく。革命とはアナーキーにとって統治の解除であり、文明に対する自然の優位を露呈させる状態であり、そのかぎりにおいて地震などの厄災がもたらす状態は革命に近いということはできる。それ以上に重要なのはこの悲惨を前にした人びとの生成変化であり、「災害ユートピア」とよばれる人民の自己組織化はその結果のひとつである。同時にこの統治の解除は秩序派にとっては恐怖そのものであり、それゆえ反革命も強烈に噴出する。綿野があげる関東大震災における大虐殺の例とは後者であり、それは「アナキズムの敗北」とはあきらかに別の問題ではないのか。前回、ここでふれた「アラブの春」は革命そのものであったが、それが擬似的な革命とみまがうISはじめあらゆる反革命を招き寄せたことは誰もが知っている。そしてこの国でも3・11の後の一時的な蜂起状態の後にきたのは空前の極右化である。ただし厄災がアナーキーに投げかける問いはより根源的なのだ。上記のように厄災をとらえることは厄災を待望するということであってはならない。厄災はまず人民の中でも下層や少数派を直撃する。だがこれは社会そのものの問題であり、したがってかつての社会の再建を対置する「復興」は反革命であり、この衝動こそが虐殺を現実化するのだ。北海道地震における崩落は気象変動によるものであることが指摘されており、ならば地震もまた人新世的な事態である。これからのわれわれに問われているのは「崩壊」をコミュニズムとして生きることである。これはHAPAX9号の高祖岩三郎が書く「終わることなき終焉」の過程における「転位」につながる。2018年夏の厄災の問いは新たな「政治」を要請しているのだ。