ファシズムとスキャンダル
P.L.W
外山恒一の新著におけるファシスト金友についての評言を外山の自画像と読むことは可能だろう。「しかしその行動に反して、思想的には金友はレイシズムをそれほど内面化しておらず、それこそ実はニヒリストであって、日本社会の異様な平穏をまずは排外主義を煽ることで攪乱せしめようというのが金友の真の狙いである」。このロジックはそれ自体としては破綻している。排外主義は「社会の異様な平穏」を防衛しようとする衝動の表現だからだ。では排外主義の煽動によって「社会の平穏」を攪乱することはどう可能なのか。排斥運動の激化が抵抗を招来させて内戦化させることだ。つまり彼らは「社会の平穏」を守れと呼号しながら、その攪乱を願望するほかない。この喜劇的なねじれが外山らの本質であり、これを自覚する外山のアクションがアイロニカルなコメディ、もしくはスキャンダルとなるのは必然なのだ。したがって外山はこの本のように「闘争史」をスキャンダルの連鎖としてしか描くことができない。スキャンダルである以上、事実の真偽もどうでもいいことであり、活動家は実名で公安情報のように登場するわけだ。歴史をふりかえるまでもなくスキャンダルはファシズムの本質である。