『他力の哲学』に寄せて


P・L・W
江川隆男は新著で「自由意志」とは右翼的であることを強調している。ここからわれわれは「他力」へとみちびかれる。鎌倉仏教は仏教が国家に捕獲され、それを強固にするための装置となったことからの逃走であり、最小回路化であった。法然、親鸞、そして一遍。守中高明はその思考と実践が革命そのものであることを極めた。一切の修行の体系を放棄して仏教の極小化をなしとげた法然の偉大さを讃えても讃えきれない。そして守中(と栗原康)によればその極限は一遍である。一遍にあってついに「信」は信じる者の主体と切断され、「名号」だけがそこにある。「南無阿弥陀仏が往生する」。彼らを導いたのは自力とはほんのわずかでもその残滓が残ったとき、革命を裏切るものであるという洞察である。これはわれわれの革命の問題であり、実のところ、これ以外に問題はない。この教義という名の仮構においては万物がひとしく救済されること、すなわち敷居の全的な撤廃はすでに条件として前提されている。すべては名号ととなえ、名号となる。この時、救済とは他力によるものである以上、自己をあらしめることでなく、それとは逆に自らの根拠を捨て去ることである。信とは情動であり「情動は支えとなるものや手段を手放すことであり、自分の足元の地面が崩れることであり、眩暈である」(リンギス)からだ。世界への信とは、ここで外を到来させる。「人間と世界の統一性を消滅させること」(『シネマ2』)。往生は未来でありながら現在の経験である。革命とは往生であり、断絶である。守中高明の『他力の哲学』は革命の書である。

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