生田武志『いのちへの礼儀』に寄せて1 叛逆のパートナーシップ

アナルコ・ハムスタリアン
生田武志『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』は、動物と人間の敷居をのりこえる書である。人間をこえて、という点では、たとえばロージ・ブライドッティは『ポストヒューマン』で、旧来の人間観からポストヒューマンにむかうための鍵として科学技術におどろくほどの期待を寄せている。一方、国家・資本・家族のトリニティを徹底して退ける生田は、より用心深く、大胆である。工業技術の発展と軌を一にした畜産革命は、ある種の生の尊厳を剥奪し、文字どおり喰らう統治権力をつくりあげた。動く「モノ」、動物とはそうした生に与えられた名である。たいして生田は、動物倫理の議論に目配せしつつドゥルーズ&ガタリに依拠し、動物への生成変化へと舵を切る。「動物に―なること」、それは「隣人に―なること」と同義である。犬や猫、馬や牛や狼の瞳に燃えさかる炎が、人間を照らす瞬間。人はその眼のなかに、もはや人ならざるものとなった自らをみとめるだろう。それは、あらゆる統治にたいして叛逆し共闘するあらたなパートナーシップの幕開けなのだ。無論、このパートナーシップは従来の動物倫理の射程を超えてあまりあり、だからこそさらにつきつめねばならない。とりわけ障害について。生田は、障害者の安楽死の肯定につながるとして悪名高いピーター・シンガーの動物倫理を、それによってげんに動物の処遇は改善されてきたが、障害者が殺害された事例はないとやや好意的に評する。だがこのとき、相模原で起こったことをどのように考えるべきか。それもまた、あのトリニティの最悪の帰結ではなかったか。問題を腑分けし、格付けしようというのではない。共闘の地平はすでにひらかれている。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1: 31)。そのときを想起anamnesisすることが、叛逆のパートナーシップを柔らかく靭くする。

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