江川隆男『すべてはつねに別のものである』はアナーキーを更新させる
マーク・ダガン協会
われわれはかつて江川隆男の『アンチ・モラリア』を「アナーキーの啓示」として讃えた(「HAPAX」4号)。『アンチ・モラリア』の地平を更新した近著『すべてはつねに別のものである』においてアナーキーへの考察は極限的にまで深められている。アナーキーとは〈無–起源〉であり、これは「様相を含めたあらゆる特性を減算しようとする」ことである。「アナーキズムとは、こうした自然における無数のアナーキーの線を増幅するための結合・切断するものの総称でなければならない」。アナーキーはマイノリティ-副言-生成変化という最小回路化を実践することであり、そこでこそ存在以前の政治が出現することになるだろう。これらの要請を不可能性として想定する必要はない。なぜなら「すべてはつねに別のもの」としてここにあるからだ。来るべき民衆は「すべての人間の様態のうちに存在する無媒介の位相」としてあるという考察はわれわれの政治のはじまりとなるだろう。それをよりあきらかにするために本書ではドゥルーズ=ガタリの「決定不可能性」が重要な概念として導入される。江川の最小回路化は不可視委員会の反統治としての脱構成Disitudeに対応するものであり、これを深化させるものである。ネグリ的構成とは端的にいって最大回路化であり内部化であり、それゆえ統治を不可避とする。これに対して脱構成は極限的な反統治としての罷免でもある。ジレ・ジョーヌが、そして香港がしめすのは罷免の政治である。この罷免が「高次の法廷」(ドゥルーズ『シネマ2』)としてのアナーキー=自然の表現である気候変動の全面化と同期しているのは必然なのだ。