アナーキー当事者研究


李珍景がその著書のなかで「愛の存在論」として示したように、すべてはおなじ愛の存立平面上において肯定されねばならない。にもかかわらず、われわれのあいだには「敷居」がおかれている。あるものの可動性=権力を増幅させるための段差が、べつのものには障害をもたらす。このとき、われわれがわかちあっていたはずの愛は、いつしか見失われているだろう。かわりにあたえられるのは文字どおりの意味での階級にすぎない。敷居は、隔てなき愛を権力のエコノミーへとおきかえるのだ。われわれはみな――極言すれば、高みにたって見下ろすものですらも――、そのなかで疚しさや卑屈さをかかえて生きるようにしいられた当事者である。その意味で、奴隷道徳から離脱し愛を回復させる作業は、必然的に一種の当事者研究としておこなわれることとなるだろう。まずは、じしんの生活経験をかえりみ、愛が塞き止められ変質しているという問題経験としてそれを語りなおすこと。ついで、その問題経験をもたらす敷居のありかを特定すること。ついで、敷居を除去することはいかに可能かをトライ&エラーすること。じっさい、ジェームズ・スコットが「アナキズム柔軟体操」として述べたように、そうした最小回路と連結させることによって、敷居を除去する運動は練りあげられていくのだ。つけくわえれば、ほかの当事者研究がそうであるようにこの当事者研究もまた、「自分自身で、共に」おこなわれる。愛の回復は、自己の生を練磨する「生存の技法」(フーコー)に属するとともに、共に在りつづけるという「コミューンの宣言」(不可視委員会)のかたちをとることではじめてなしえる。「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ1231)。わたしは、あなたは、いつどこに敷居を看取するのか。それを取り払うためにはどうすればいいのか。わたしとあなたは、どのように出会いなおすことができるのか。ところで、珍景によれば敷居を除去する運動とはとりもなおさず革命であった。敷居なき愛の存立平面へとわれわれの生活を巻き戻すこと。アナーキー当事者研究、それは革命の最小回路である。

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