ウイルス的蜂起

NEZUMI

江川隆男によればウイルス禍がわれわれに教える倫理とは「自然に内在し直す」ことである。これは決してエコロジカルに生きるということではない。いまアメリカで開始された全土的な蜂起こそ自然への内在であり、ウイルス禍のさなかの、もしくはそれ以降の政治をしめしているのだ。
コロナがそれ以前からあった収奪と差別、過剰人口化と棄民化、そして人種主義を飛躍的増幅させるものであり、同時にコロナが監視社会の高度化と警察化をもたらすことはすでに多く指摘されている。しかしコロナ以後の政治としての今回の蜂起が告げるものはそれにとどまらない。
石川義正がデリダをひきながら論じるように(「『人間の固有の獣性としての愚劣』」)ウイルス禍は世界を計算可能性のもとに包摂するグローバリゼーションにたいする計算不可能性の露呈である。この時、人口維持装置としての国家が資本主義を絞殺するという未曾有の事態が招来された。統治者たちはトランプとメルケルの間の振幅のなかで動揺しつづけ、右派が自由を、左派が監禁を主張するという奇怪な現象もここにうまれた。そこであらわになったのは統治の脆弱さであり、その生政治の崩壊であった。
その裂け目においてジョージ・フロイドが虐殺されて、それへの反攻として新たな蜂起が開始された。なぜ人種主義が焦点になったのか。われわれが昨年、ファシズムを論じるにあたり引用した以下を再度引こう。「フーコーによれば近代以降の人種主義は生権力とともに形成された。「人種主義とは権力が引き受けた生命の領域の切れ目を入れる方法なのだ」」。人種主義は生政治の条件であるが、そうであるがゆえにつきまといつづける原罪なのだ。これはいわゆる先進国が、というより国家そのものが植民地主義を基礎にしていること自体が有する逆説である。フーコーの人種主義は「敵と面と向かうことを考えるやいなや…必要とされる」ものにまで拡張される。そうであるならシュミットの友敵理論とは人種主義を転位したものではないのか。この危機は本質的に決定不可能であるがゆえに例外状態(=非常事態)における決断の政治学もまた生み出されたのだ。
人種主義は植民地主義から派生したが、この間、誰もが引用するスコットによれば、その様態である奴隷制は農耕国家そのものに起源をもち、農耕国家の定住性こそ疫病のはじまりだったのである。そしてウイルスとは生命と非生命の間になって生命を再定義しつづけるものである。すなわちウイルス禍であらわになった統治への反攻が人種主義を契機として勃発したことは必然的であり、この蜂起は自然へと逆行することによって統治の起源を切り崩すものとなるだろう。そしてこれは非対称的であることによってシュミット的政治を破産させるのである。人種主義への問いは「自然という外部性の力能」(江川隆男)によって新たな次元へ突入したのである。人種主義へ反撃することはもはやリベラルの最後の砦を守ることではない。
(これは「HAPAX 」13号掲載予定のテクストの一部である)

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