ミネアポリスーーこの戦いにはいま、二つの陣営がある CRIMETHINC
訳者解題
以下は『クライムシンク』に五月二八日付で掲載されたミネアポリスの暴動論である(https://ja.crimethinc.com/2020/05/28/minneapolis-we-have-crossed-the-rubicon-what-the-riots-mean-for-the-covid-19-era)。
このテクストとともにとりいそぎ確認しておくべきは、今回の暴動の端緒となった人種主義的な警察による殺人事件が、コロナ禍を受けて滅びようとしている文明が目下世界中でやみくもにふるっている暴力ーー死に体となった支配秩序をパラノイア的に維持しようとする、語のあらゆる意味における「ポリス」の暴力ーーの具体的なあらわれのひとつなのだということである。そしてだからこそ抗議の炎は、コロナ禍「にもかかわらず」ではなく、コロナ禍「だからこそ」、あっというまに世界中に飛び火しつづけているわけだ。各地の民衆蜂起は、その名に値する「アフターコロナ」が、暴動の炎のなかにしか存在しないことを告げている。
そして同じ暴力のあらわれと、それにたいする抗議の動きは、ここ日本でも見られる。五月二二日、あからさまな身体的暴力をともなった不当な職務質問によってクルド人男性が怪我を負った事件はその一例である(https://twitter.com/aibery/status/1264393425274564608)。同月三〇日には、有志によって、そうした警察のヘイトクライムに抗議するデモがおこなわれているが(https://news.yahoo.co.jp/articles/bee0ceb8d4eda9ed46bbba4cb6ab024f39b52a8d)、その際にも警察は、参加者にたいして不当な拘束をおこなっている。
それを受け、今月六日にも、あらためて抗議行動がひらかれると聞く(詳細は、「#0606渋谷署前抗議」で確認されたい)。くりかえすが、起きている出来事の根本にあるのは、プリンスの故郷を燃えあがらせ、世界中を燃えあがらせているのとまったく同じ暴力だ。「#blacklivesmatter」と付して海の外のニュースを拡散したり、インスタの画面を真っ黒にしたりするのも悪くないが、いまこそあらためて、「連帯」とはなにを意味するのかを思考するときである。以下の文章がその手助けとなることを願う。
ミネアポリスーーこの戦いにはいま、二つの陣営がある
ーーCOVID-19の時代にとって、この暴動はなにを意味しているのか
ミネアポリスーーこの戦いにはいま、二つの陣営がある
ーーCOVID-19の時代にとって、この暴動はなにを意味しているのか
クライムシンク
訳・花和 尚
パンデミックが発生する以前から、人口を二極化する不平等が急速に激化していたアメリカは、ひとつの火薬庫だった。三月以来、われわれは歴史上類を見ない失業と死にまで至るリスクを経験しているが、しかしそれらは、既存の格差を規定しているのと同じ階級と人種の線に沿って配分されている。政府は何十億ドルものカネを経営者たちの懐に注ぎこむいっぽうで、一般のひとびとを見捨てている。企業はまだ仕事のある人間たちに連日命の危険をおかすことを強いつつ、あらたな監視テクノロジーを導入して、自動制御化のペースを上げている。ようするにわれわれは、国家の暴力によって管理され、ウイルスによって間引きされる過剰人工として扱われているわけである(1)。
政治の領域に居並ぶ政治家たちは、みなこうした事態に手を貸している。状況を安定させるべくよりいっそう剥きだしにされた強制力に頼る者もいれば、さらに合理的なマネジメントに頼る者もいるが、そもそもわれわれを現状に至らせることになった構造的要因にどう対処するべきかについて、現実的な見通しをもっているものはだれもいない。われわれがはじめた活動(2)からレトリックや議論の要点を盗んだうえで、社会の変化というものはーーミネアポリスにおける警察の解雇がまさにそうだったようにーー、草の根的な行動によって力づくでそれをなしとげる以外には考えられないのだということを示してみせるのが関の山だ。
だが五月二六日までは、アメリカにおける主な断絶の線は、パンデミックなど起こっていないことにしたいトランプの支持者たちと、じぶんたちを危険にさらす要因には手を出さないまま慎重で責任ある存在と見られたい民主党員たちのあいだにあるように見えていた。経済の「再開」を要求する擬似草の根運動的な極右運動(3)と、国の閉鎖措置を支持する並外れて抑制的な警察官の衝突というスペクタクルは、政治的な言説を、資本主義者や白人至上主義者が提唱する「自由」のようなものか、さもなくば、全体主義国家がたえずその提供を約束する「安全」のようなものかという愚か者の選択に制限する役割を果たした。
ジョージ・フロイドにたいする残虐な殺人を受けて五月二六日、二七日のミネアポリスで生じた、警察の統制にたいする勇気ある抵抗(4)は、多くのひとびとが、たとえみずからを大きな危険に晒すとしても、政府と警察に反対する覚悟ができていることを示した。われわれがいま耳にしているのは、この二ヶ月のあいだ沈黙していたひとびとのうちの一部の声ーーつまり富にまみれたリベラルでも、雷同的な保守でもない者たちの声ーーであり、共に立ちあがるなら、われわれは現状を遮断するのにじゅうぶんな力をもっているのだというこがあきらかになったのだ。
ミネアポリスの出来事は、過去数年間のあいだに痛ましくも縮小していた、われわれにはいったいなにが可能なのかについての集団的な想像力を押しひろげることになるだろう。この出来事は、社会の変化はどのようにして起こるのかにかんする言説を変化させるはずだ。選挙をつうじて権力を握る者たちに懇願することが袋小路であることがあきらかになった。力づくで変化を起こすことはひとつの賭けだが、それだけが唯一残された現実的な選択肢になったのである。
そんなふうに、もはや後戻りのできない地点までわれわれを連れてくることになったその行動が、反黒人的な警察の暴力に応答したものであり、白人至上主義や、その他のありとあらゆる抑圧の力を被る側のひとびとによって開始されたものだったことは重要だ。二〇一七年の末に指摘したとおりだが(5)、ファーガソンやボルチモアだけでなく(6)、全国各地で生じていた警察暴力にたいする反乱(7)は、ドナルド・トランプの選出ののち、実質的に途絶えてしまっていた。なぜこうしたことが起きたのかは定かではないが、いずれにせよ警察の暴力が減少したことがその理由ではないことはたしかである。ミネアポリスの蜂起は、未精算なままになっていたこの時代の負債のすべてを、ふたたび舞台に上げるものだ。だが今回の再演は、まったく異なる文脈のなかでおこなわれる。そしてその文脈のなかでは、いままでよりさらに多くのひとびとが過激化し、社会はよりいっそう二極化しているのであり、ーー警察の銃弾や、Covid-19や、グローバルな気候変動によってーーわれわれの生命が危機に瀕していることは、もはや誰にとってもあきらかなものになっているのだ。
じっさいミネアポリスの衝突は、ギリシャからチリまでのニュースを席巻している。良くも悪くもアメリカは、地球規模のアテンション・エコノミーのなかで中心的な位置を占めているーーというのもそれは、パンデミックの影響で、世界中のひとびとがいま、同じような切迫感を感じているからだ。ことにーーブラジル、インドネシア、南アフリカといったーー多くのひとびとがジョージ・フロイドが被ったのと同様の残虐さを経験しているグローバル・サウスにおいて、ミネアポリスにおける反乱は、今後数カ月のうちに別のひとびとによって模倣されるだろう例を提供するはずである。
ではいったい、支配階級はどのように対応するだろうか。アメリカでは、トランプとその支持者たちが、民主党にはこの国を管理することができないのだと主張し、事態を利用して白人特権を受けている人間たちのあいだで人種主義的な恐怖を煽ることになるだろう。また中道派の民主党員たちは、国内の権力を取り戻すことを期待しつつ、ーーミネソタが民主党の支配下にあり、法はつねに白人至上主義の道具でありつづけているにもかかわらずーーホワイトハウスのなかで法による支配(8)が遵守されていないからこそこういった動揺が起きるのだと述べるはずだ。そして制度的な左派たちは、媒介者のようにふるまい、われわれを街頭から締めだして、わずかな合意とひきかえにわれわれを管理しようと申しでてくるなるだろう。
この国がたがいに敵対しあう派閥に分裂しているいま、できることなら、それらグループすべてが、他のグループとかかわりをもったまま国家規模の大弾圧を実行できるだけの政治資本を手にしないことを願う。各派閥は、状況をここまで激化させた責任を他の派閥に負わせようとしているかに見える。だがいずれにせよたしかなのは、この出来事の報道を左右しているのは、もはやトランプだけではないということだ。この戦いにはいま、ふたつの陣営がある。
ほんの一週間前のことだが、極右の一部は、「再開」を求める抗議行動を理由として、じぶんたちは警察に反対しているのだ見せかけようと試みていた。いっぽうでミネアポリスでは昨晩、銃をもった民兵の構成員たちが、抗議者たちは支持するが、略奪には反対だという曖昧な立場を表明したーーだが連中がいったいどちらに向けて銃をかまえているかに気づくなら、そこに矛盾があることは、すぐに火を見るよりもあきらかなことになる。昨晩のミネアポリスで、抗議者のひとりが店を守ろうとする自警団によって殺害されたことが分かった時点で、制服を着ていようがいまいが、自警団も警察も同じものーーつまりは人殺しーーなのだということは、いまさらいうまでもないことである。
だとすればわれわれは、いったいなにをなすべきか。われわれは、なぜひとびとがじぶんたちじしんのために立ちあがっているのかを尋ねてくるひとたち全員に、その理由を分かりやすく話して聞かせるべきだ。われわれは、どうやって街頭でおたがいの安全を確保するかについてのスキルを共有するべきだ(9)。われわれは、じぶんたちのネットワークを強化し、世界中で同様の出来事に参加する準備をはじめるべきだ。外部の扇動者をあげつらう陰謀論(10)を筆頭にして、警察の暴力にたいして連帯してともに行動する者たちを分断しようとするあらゆる試みに抵抗するべきだ。なぜ破壊行為や略奪が効果的で合法的な抗議の戦略なのかを、あらためてもう一度説明するべきだ(11)。民衆が警察暴力に抗して立ちあがるそのたびごとに、手を差しのべる先のひとびとが日々直面しているのと同じ危険をおかす覚悟をもって、連帯とともにその姿をあらわすべきだ。なによりわれわれは、抑圧も、ヒエラルキーも、警察も監獄も監視もない世界のヴィジョンを共有し、それを生みだすための戦術を身をもって示すべきだ。
これまでよりさらにあからさまに黒人を殺害するためにパンデミックを利用した警察に、われわれが負うものはなにもない。警察がわれわれの安全を守るために存在していたことなど一度もないからだ(12)。国家から引きだしたカネをこれまでよりさらに多く懐に入れ、すみずみまで市場を独占する億万長者たちに、われわれが負うものはなにもない。連中の経済のために生きることは、われわれにとって死を意味するからだ(13)。われわれの健康や住居を保障するために、ほとんどなんの尽力も見せない政治家たちに、われわれが負うものはなにもない。彼らは変革の機会を棒にふった。われわれはじぶんたちじしんですべてを変える必要がある(14)。
支配秩序に未来はない。おそかれはやかれそれは崩壊するだろう。富と権力をごくわずかな人間の手に集中させることが、いつまでもつづくことはありえない。残された時間は少ない。唯一の問題は、いまある秩序がわれわれ全員を殺し、この惑星を滅ぼす前に、われわれがそれを廃絶できるかどうかだ。じぶんたちが進む先にあるとおもっていた暮らしは、すでにわれわれから奪われている。別の未来をつくれるかどうかは、われわれの手にかかっている。
原注
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
(10)
(11)
(12)
(13)
(14)