それはどのように為されねばならないかもしれないか イドリス・ロビンソン 高祖岩三郎訳
ジョージ・フロイドの虐殺を契機とした北米における全土的蜂起はコロナ以降の政治を指し示す決定的な指標であり続けている。以下はその前線から発せられた重要な提言である。「最終的な目標は、アメリカを、コミューンの連合の集合的配置に向けて分解することです」。おそらくこれはこの地にも適用されるべき目標である。これはコミュニズムの実践的な再定義とともに試行されるだろう。
How It Might Should Be Done
それはどのように為されねばならないかもしれないか
イドリス・ロビンソン
高祖岩三郎 訳
(以下は2020年7月20日、Red May(1) で行われた講演を、Ill Will Editions(2)が書き起こしたテクストである。)
わたしはこの講演を、昨夜起こったこと、シアトル市の労働者階級、そしてシアトル市の反乱者たちへの賛辞から始めたい。わたしは昨夜観察したことに大変感銘を受け、その抑揚感を共有するためにここにいます(3)。さらにこの折に、ギリシャの同志たちに、連帯の意を表明したく思います。2008年に当地でわたしに初めて蜂起を経験させてくれたのは、彼らだったからです。そこでわたしが学んだこと、経験したことは、全く異なった今日の社会的分脈でも、大変有意義なものです。加えて、最近ある同志が、警察の手で殺されています。その同志ヴァシリス・マゴスに「力の中で眠れ(rest in power)」という哀悼を捧げたい。
この講演の題については、若干、説明を要すると思います。これはニコライ・チェルヌイシェフスキー(1828〜1889)が、帝政ロシアの刑務所で書いた小説から引いています(4)。それをレーニンが、1902年のパンフレット『何をなすべきか』で借用したわけです(5)。そこで彼は「われわれの運動にとって焦眉の問い」に答えたのです。前衛党を打ち建てるとは、何を意味するのか?われわれはどのように意識を、前衛党から労働者階級に広げていくのか?われわれはどのようにしてストライキを超えて、全面的な革命的政治闘争に移行するのか?さらに2001年になってから、フランスのティクーン誌に『何をなすべきか』という題の文章が現れた(6)。そこで彼らは、闘争の目的や主眼を述べるのではなく、その方法と技術に焦点を移行させようとした。目的因を考える代わりに、われわれが導入するべき方法を考えたわけです。
わたしのここでの目論見は、それらに比してはるかに控えめなものです。文法的な構成としては「なければならないかもしれない」は、南部の方言からきています。わたしはそれによって題を、若干黒人化しようとしたのです。また真っ当な意味で、これらが仮説的な命題と提言だからでもあります。つまりわたしが今日主張すること、それ自体が、全く間違っていてもかまわない。それが戦略について、より深い議論を生み出すならば、それでいいのです。わたしが本当に獲得したいことは、この議論を公に開くことで、人々が望むように行動し、それを強化してゆくことです。それと同時に、わたしたちの対話が誠実であることを願っています。蜂起を後退させる冷笑主義や悲観主義や民主主義的道徳主義が蔓延しています。それらに対して、わたしは、時は今だと信じています。わたしたちは、これまでほとんど誰も経験したことがない規模の反乱を経験しています。ギリシャと比較してさえ、事態はより進んでいる。ギリシャの反乱にはなかった規模の殉死者を出しています。この事態に対応する戦略的思考と反省の時がきていると信じる所以です。
勿論、地球上で最も反革命的な場所であるアメリカで、こうしたことを言っているのは、奇妙にも感じます。それでもなお、わたしたちは心を引き締めて、これらの問いを真面目に考えねばなりません。これらに賭けられているものの次元が、極めて高揚されていて、それらについて真摯に考える時がきているのです。
1戦闘的な反乱が実際に国中で起こった。革新派の鎮圧勢力は、この出来事を否認し解体しようとしている。
自明なものが、常に自明に見えるとは限らないということです。
わたしたち皆がそれを観た。ジョージ・フロイドの殺人の後、起こったことを、わたしたち皆が観た。そこで起こったことは、この上なく暴力的で破壊的な反乱だった。それはアメリカにおいて、過去40年も50年も無かった現象だった。この規模の何かを経験した者は、ほとんどいない。ミネアポリスでは、警察署が直ちに燃やされ、続いてニューヨーク、アトランタ、オークランド、シアトルなどの全都市が炎上した。この事態は、すぐさまマーチン・ルーサー・キングの暗殺後の暴動と比較された。しかしわたしが思うに、今回の方が、1968年より2020年の方が激しく、その上まだ収束してはいない。
それにも関わらず、改良主義者たちは、あつかましくも、このことが全く起こっていなかったと主張している。彼らは、それが起こっていなかったかのように、燃える警察車両を消滅させ、燃え上がる警察署を記憶から消し去ろうとしている。幾度も幾度も、同じ筋書きが聞こえてくる。ニュース番組に誰かが現れ、政治運動家が講演し、皆一様に「抗議行動は平和的で、非暴力的だった。彼らは法と秩序の範囲内で行動していた」と言いつのる。ちょっと待て、セントルイスで、警官が撃たれたのは、法と秩序の範囲内ではないだろう。彼らは、何とかこの出来事を消滅させようとしている。警察署が焼かれることが、市民的作法だというような惑星に、われわれは住んでいるのだろうか。
この妄想は、一考に値するものだと思われます。これは究極的には、妄想以上の何かなのです。それは、この夏起こってきたことについて喋りたがる、全ての進歩的自由主義者を、実質的に統一している姿勢なのです。バイデン支持の民主党員から、フォックス・ニュースとは一線を画す全てのメジャーなメディアから、ブラック・ライブス・マターを名乗る人々まで、これらのグループが共に推進する目論見は、蜂起は起こっていないという主張を広めることなのです。わたしは、どこかのコンサルタント会社が、これらの抗議行動が、秩序にかなったものであるということを、幾多の方法を駆使して証明するための書類を読んだことさえあります(7)。
それでも、彼らがどのような資料や統計をでっち上げようとも、アメリカの幾多の都市で、警察車両が燃やされた事実は、消しようがない事実です。それでは、何故、革新/リベラル派は、この蜂起あるいはこの反乱を抹消するために、ここまで苦労をしなければならないのか?それに対して、何故、法と秩序を防衛するための最も暴力的な人々──たとえば検事総長ウイリアム・バー──が、蜂起が起こったことを認知する唯一の声なのでしょうか?わたしたちは、このことを考えて見なければならない。
ここで問われているのは、一時的な理性の喪失などではない。それは否認の戦略、つまり改革と呼ばれる鎮圧の戦略以外の何物でもないのです。
自由主義者たちも、無意識的には、蜂起が起こったことを認知している。彼らは、昨日シアトルの巷で割られた窓ガラスのことを無視することはできない。それでも彼らは、わたしたちにとって大いに意味があり、さらに強化したい、これらの出来事の意義を、貶めたい。彼らは、これらを再強調し再認知しようとしているが、あくまでも別の方向に向けてなのです。究極的に、彼らが望んでいるのは、反乱が開いた可能性を封じて、わたしたちがこの蜂起をさらに推し進めるのを思いとどまらせることです。あらゆる民主/自由/改良主義者たちについて言えることは、彼らが目指しているのは、この息吹を借用して、事態を変えること、ただしほんの少しだけ変えること、つまり何も変えないことなのです。
ここには道徳的な作用があって、それが深い倫理的問題を提示している。この鎮圧勢力は、黒人の死を管理し利用するために制度が見つけた、もう一つの方法以上の何ものでもないということです。この蜂起の間に、幾人もの黒人の若者/子供達が殉死しているのですが、活動家たち、「目覚めた」ジャーナリストたち、様々なタイプの革新的政治家たち、そしていわゆるブラック・ライブス・マターの活動家たちさえも、彼らの死から利得を受けていること(これについては以下で触れます)を思い起こさねばなりません。これはアメリカ社会において、継承され続けている筋書きであって、わたしたちが何とかしない限り、無くなることはないものなのです。
この出来事を否認することによって、彼らは路上において開示された革命的真実を、曖昧にしようとしている。彼らはわたしたちが導入した現在時を抹消したいのです。彼らは、権力機構を保存するために、表面的な痛み止めのための調整案を示しつつ、わたしたちのエネルギーを吸い取ろうとしている。アメリカの歴史は、これまで常に人種的関係を改良する試みの歴史だった。彼らが今になってもそれを正しくやっていないということは、それをやり遂げることは永遠にないということです。
彼らが何をしようと、どのような小さい変化を加えようと、黒人を蹂躙し殺害するという抑えることのできない衝動は、受け継がれてゆくでしょう。こうした微小変化から利得を受ける誰もが、この殺人の共犯者です。この反乱が孕む革命的軌道を妨害するなら、あなたの手もまた血で汚れている。この機構と共犯関係を保つ誰もが、敵以外の何者でもない。
それに比べて、右翼はこの出来事に対して反対方向から対応している。われわれ革命派以外では、彼らだけが、反乱が起こったことを認知する声になっている。ウイリアム・バーが言うことには、注目すべき正直さがあります。それを以下のように考えて見ましょう。彼がこの蜂起を、力によって押しつぶし、いずれ封じ込めようと考えている以上、彼はまずそれが起こったことを認知せねばならない。この意味で、トランプの言葉にも、正直さがあります。トランプと彼に従うフォックスニュースの面々など、「法と秩序」を主張する全ての者は、まさに彼らが蜂起を押しつぶしたいために、その実在を認める以外にないのです。ちょうど今日、トランプは、ニュースで、連邦軍の突撃隊を、ポートランドだけではなく、ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴにも導入することを宣言しました(8)。この決定を正当化するために、彼は蜂起が実際に起こっていることを認知せざるをえません。これらが、わたしたちの敵の分裂した二面、わたしたちが今日対面している国家のヤヌス的顔なのです。
加えて、この反乱は、リベラル派にとって、警察を廃棄し破壊する代わりに、「出資取り消しすることdefund」が、何を意味しているのかを示しています。警察力を保持しつつ、いくつもの小改革とつぎ当てを行使するので充分である、単に縮小しつつ改良することが可能であると考えている人には、現在ポートランドで現在起こっていることが、その結末を予示しています。それがリベラル派にとっての解決なのです。それに対して、変化が本当に起こったことを認知し、それを激化させようとしている者は、むしろファシストの軌跡と政治に対抗的に連動しています。後者は、法、秩序、白人優位性という不変、永続、超越的理念を夢想し、防衛する人々です。こうした理想から逸脱する何物をも、ファシスト的秩序は、消滅させようとする。このためにこそ、それはリベラル派が推進する諸改革を拒絶しようとする。たとえば、トランプが軍事基地の名称を変えることを、ここまで嫌悪するのはこのためです。彼が代表する権力にとっては、名称問題そのものはどうでもよく、そのような微小変化に耐えることができず、むしろ出来事そのものを潰し無きものにしたいということです。
この国家のファシスト的部分に対応する方法は一つだけです。それは暴力をもって機能している。だからわたしたちは、より強力な暴力をもって対抗する以外ない。それに対して、自らの目的性に合致させるために出来事を否定しようとする改良派に関しては、わたしたちはより鋭利に対応する必要があります。わたしたちはマキャベリの狐のように、狡猾に振舞わねばなりません。誠実さが、彼らの行動様式ではないからです。彼らは、常にわたしたちの目前で起こっていることを否定しようとします。だから彼らに対応するには、偽装と転覆が必要です。それによって彼らを二重に惑わさねばならない。
これら国家に二つの側面に関して、わたしはどちらかが他方より悪質だとは見做しません。それらはわたしたちが対抗し、最終的に打倒すべき二重性なのです。
2この多人種的反乱は、黒人の前衛に先導されて、慣習化された人種の分離を自発的に超克することに成功した。それを捕獲しようとする動きは、その分離の線を引き直し、それらの境界を警備しようと試みている。
第一に、かつてのアフリカ人奴隷と彼らの祖先こそが、この国のあらゆる分野の前衛だった。アメリカには、このアメリカという不毛の地には、われわれのそれの他に文化はない。クラシック音楽はなく、ジャズがあるが、それはわれわれの発明である。それ以外に、アメリカが世界にもたらす物は何もなかった。
わたしはここで、「前衛」という言葉を、特異な意味で使っています。そこには指導者はいない。この反乱に指導者はいない。わたしたち皆がそれを先導し、準備し、開始する前衛だった。それに続いたのは、広範な多人種的蜂起だった。改革主義者は、力の限りこの真実を消そうとした。巷に出ていた人は皆、そこにあらゆる種類の人々がいたことを知っている。異なった身体、異なった形、異なったジェンダーが、共に巷に溢れていた。
ことに企業や大学といった環境で、どのように人種差別を無くすか、多くの議論が交わされてきた。だが、わたしたちは、ジョージ・フロイド殺害以後、最初の数週間の路上で、どのように人種差別を無くしたらいいのか、まさにそれを観察したのです。
革命の墓堀人や吸血鬼が現れ、人種の分離を再強調し新秩序を押しつけ始めたのは、蜂起が遅滞し疲弊してからのことでした。この最も目立たない仕草は、活動家たち自身のそれでした。わたしたちの最悪の敵は、わたしたちの最も近くにいるのです。以下のような馬鹿馬鹿しいデモに行ったことがあるでしょうか?「白人が先頭に、黒人は真ん中に」──こうした区分けは、同じ人種の線引きを、より洗練された形で確立し直す方法でしかありません。わたしたちが目指すべきなのは、最初の日々に観たこと、つまりそれらの境界が消滅し始める事態なのです。
人種の分離線が再導入された最も破滅的な例としては、レイシャード・ブルックスの長年の相方ナタリー・ホワイトが受けた最も露骨な人種的検閲でした。ホワイトは、彼女の亡くなった相方にちなんだアトランタにおける抗議行動のために、いわゆる「目覚めたツイッター活動家たち」に呼び出されました。その後、彼らは、レイシャードが殺害されたウェンディーズの放火に関して、彼女の共犯性を主張したのです。こうしたブルジョア的な罪と無罪の構築は、わたしたちに一切係わりのないことです。彼女が、この行動に関わっていたかいないかで、わたしは彼女を判断しません。それはわたしたちが決定することではありません。いずれにせよ、わたしたちは団結し立ち上がっているのです。それに対して、わたしは、この出来事に彼女を巻き込んだ、これらの「目覚めたトゥイッター活動家たち」、正義の代弁者を名乗る者たちの責任を問います。わたしはこれらの活動家たちだけを非難します。レイシャード・ブルックスも、墓場から彼らを非難しているでしょう。
秩序は、人々の集合を整然と区分けします。そうした集合体の秩序づけは、看守や警察官たちの特権なのです。ジョン・ブラウンの例を思い起こしましょう。彼は、彼の黒人たちとのつき合いが、許容できないという理由で、同志や友人たちから批判されていました。あの時代の彼の黒人たちとの関わり合いを考えると、彼がひたすら黒人たちを人間として扱っていたことで、非難されているようです。人種の壁を超えて、人間として出会う時、わたしたちはいつも非難されるのです。ことさら最も進歩した鎮圧の側から非難されるのです。ジョン・ブラウンは、ことさら彼の戦闘的な戦術について批判されてきました。フレデリック・ダグラスは、彼の蜂起志向を最も声高く批判した者の一人でした。ダグラスの方が後続者でしたが、歴史はブラウンが正しかったことを証明しています。奴隷制を廃棄するただ一つの方途は、暴力的な蜂起だった、ということです。歴史は、現在、彼の名誉をある程度、挽回しています。しかしわたしが皆で一緒に考えてみたいのは、もしジョン・ブラウンが生きていたら、彼はどう振る舞っているだろう?ということです。ジョン・ブラウンは、この壁を超えたことで、ナタリー・ホワイトと共に、刑務所に入っているでしょう。
3 白人優先主義の病んだリビドー的本性に目をつぶることで、アイデンティティーポリティックス、インターセクショナリティー、そして社会的特権に関する言説こそが、この警察機構の最も洗練された部門を担っている。
わたしたちは、皆ある時点でそれと出会っている。ことに政治的なものに関わってきたならば。わたしたちは皆、アイデンティティーポリティックスなるものを知っている。この「白人の特権」についての議論、いわゆる「インターセクショナリティー」なるもの。これらは全て、わたしたちが超克しようとしている人種の分断を強化するだけである。それに有効性や目的があるなら、この蜂起が現時点で、すでにそれらを乗り越えている。これらの思考について、一つずつ考えてみましょう。
「特権」──これが純粋に心理的な概念となったことを、わたしたちは知っている。認知している。あるいは認知せねばならない。白人の特権という思想には長い歴史がある。それはW.E.Bデゥボイスに、テオドア・アレンに、ノエル・イグナティエフに、ハリー・ヘイウッドに遡る。これらの思想家それぞれにとって重要だったのは、白人労働者に黒人労働者と共に闘うことを促すための理論の構築だった。アメリカ政治の特殊性がはらむ紆余曲折の中で、この思想は、心理的なもの、つまり白人に自分たちの罪責感を逆に誇りに思わせる方途となった。たとえば、ペギー・マッキントッシュの白人特権に関する極めて重要なテクストを見ると、彼女はこれについて「口を閉ざしながら噛むことができること」と表現している。わたしは、自分の口を閉じてまで、ものを噛みたいとは思いません(9)。
インターセクショナリティーについては、Red Mayの前回の講演で十分話したので、細部には言及しませんが、ジョン・クレッグとわたしは、それが依拠している諸前提が、経験的に間違っていることを明らかにしようとしたことがあります(10)。それに関する記録が示しているのは、たとえば、黒人女性について、看守になる者のほうが、囚人になる者より多いということです。だがこれは、黒人女性の闘争と苦境を疑うことではなく、理論的構築としてのインターセクショナリティーの限界を示しているのです。奇妙なことに、事実として、白人女性の方が、黒人女性よりも刑務所収監率は高いのです。黒人男性については、多数が刑務所に留まり続けている。
インターセクショナリティーが、かつて試みたことが何であれ、それはもはや実行可能ではなく、指標として有効ではないのです。Red Mayの講演において、わたしは黒人フェミニズムの起源に戻ることを提案しました。わたしたちは、黒人フェミニストの闘争を、権力機構がそれらに及ぼしている抑圧を超えて理解するカテゴリーを必要としているのです。わたしはトニ・ケイド・バンバラの『The Black Woman』(1970)という本の、素晴らしい序文を引用しました。そこで彼女は、「黒人女性」とは何か、定義することを拒絶しています。彼女は、黒人女性が二つの抑圧の「境界面」であるとは言いません。黒人女性が、二つの異なった機構の周縁にいるとは言いません。彼女が主張しているのは、黒人女性とは、彼女らの革命的な活動を通してのみ理解されるだろう、開かれた可能性であるということです。制度的弾圧に関する言説としてのインターセクショナリティーの代わりに、わたしたちに必要なのは、闘争の言説としての黒人フェミニズムという思想を回帰させることです。
黒人女性とは何か、誰か、という定義を開くことによって、トニ・ケイド・バンバラが最終的に言っているのは、黒人女性は、彼女らに押しつけられるどのようなアイデンティティーによっても規定されえないということです。彼女らはそれら以上のものなのです。加えて、この国における黒人民衆の歴史を見ると、われわれは常にわれわれに掲げられるもの以上であると言えるでしょう。
アイデンティティーポリテックス、インターセクショナリティー、そして社会的特権の言説──これらは全て警察行為の異なった様相です。
それ以上に、これらの言説のどれもが、この国における人種を下から支えている悪質で恐るべきリビドー的政治を無視しています。ジェームス・ボールドウィンのような勇気ある人がこれに言及していますが、それ以後、誰もがそれを繰り返すことを恐れているのです。彼の画期的な短編小説『Going to Meet the Man』(11)を読むと、この国における人種差別の力学が正確に理解できます。簡単にこの筋書きをまとめると、白人異性愛者カップルの寝室から始まります。その白人男性は、性的不能に悩んでいる。どのようにしてこれを克服したらいいのか?彼は黒人リンチの現場に連れていかれた幼年時を思い起こす。そのリンチにおいて、死体は単に切り刻まれていたのではなく、性的に蹂躙されていた。彼は男性器を手渡された。そのことを思い出すことで初めて、彼は勃起することに成功する。
これはきつい話で、誰もこんなことを話したがらない。しかしこれこそ、われわれが挑戦しなければならない人種差別の核なのです。結局、誰も人種問題のこの側面に触れたがらないのは、わたしたち皆が、それに巻き込まれているからです。白人リベラルは、明らかに、黒人殺害ヴィデオに興奮している。黒人リベラルが、自分たちのキャリアのために黒人殺害ヴィデオを広めていることは、より明白です。わたしたちが、人種差別の中で機能しているこのリビドー的衝動を問題にしないかぎり、アフマド・アーベリーが何故、あのような方法で殺されなければならなかったのか、説明し得ないでしょう。これは警察とは何の関係もありません。それはアメリカ社会を動かしている衝動そのものと直に関わっているのです。
4この反乱は、どんなに精巧な社会学的分類にも収まらない。それは、あらゆる分類を超過することによって、アメリカという荒地を結合するあらゆる拘束から自らを切り離す、排除された残滓である。したがって、この闘いの戦列は、この反乱の最初の数週間に出現し、革命的企画の完成において消散するであろう、その動きと発展の形態によってのみ規定されうる。
はじめに述べたように、あらゆるタイプの人々がこの反乱に参加していた。このことはそこに参加した誰もが認知していることです。そこにいた人々をまとめるカテゴリーはないと言ってもいいでしょう。わたしたちが言える最も妥当なことは、そこにいたのは、内在化されつつ除外されている者たち、あるいは、ここに属さずこことどのような関係も持ちたがらないアメリカの部分だということです。この趨勢は、それが現体制の外部性としてそれに対抗している動きによってのみ把握することができるもの、それが国家/資本/アメリカ社会に対抗している軌跡をなぞることによってのみ見えてくるものなのです。わたしたちが昨夜観察したものよりさらに恐ろしく、さらに強力な何かを創出するために、この自発的な組織を深め強化するのは、われわれの他にはありません。それはアメリカ社会を真っ二つに割る力なのです。
5いわゆる黒人指導者なるものは存在しないし、し得ない。それは白人リベラルの想像の中にだけ宿るキメラである。
それはどこででも聞かれることです。わたしはこれをあらゆる都市で、あらゆる友人のテクストメッセージから聞いています。友人に電話して「ニューオリンズで何が起こったのか?」あるいは「シカゴで何が起こっているのか?」と聞いたとします。そこで暴動が起こっていて、皆が慌ただしくしているなら、黒人指導者のことなど何も聞こえてきません。それに対して、事態が停滞するやいなや、黒人指導者の名前しか聞こえてこないのです。
端的に言って、わたしは生まれてこのかた黒人指導者なるものを見たことがありません。そんなものは存在しないからです。いるとすれば、それはマルチンやマルコムのような死者だけなのです。存在価値があればあるだけ、彼らは殺害されているのです。黒人指導者が存在するならば、彼らはムミヤやサンディアタと一緒に刑務所にいるでしょう。黒人指導者が存在するならば、彼らはアサータと一緒に逃げているでしょう。
黒人指導者について話したがる人々は、白人リベラルの他にはいません。黒人の指導者性とは、白人リベラルの心が育む虚構であり、幻の他ではありません。それについて奇妙なことは、わたし自身が全人生の中で出会ってきた以上に、白人リベラルこそが黒人指導者に親しんでいるということです。あたかも黒人指導者性という電波が、直接彼らの頭に届いているかのようです。
何故、古典的な黒人指導者なるものが、もはや存在しないのか、その理由が提起されています。幾多の新社会学的研究が提唱している(ニューヨークタイムズにこれに関する記事がありました(12))一つの議論は──過去に見られたような影響力ある指導者は、確固とした中間層の存在を必要としたが、過去40年の記録を見ると、黒人の中間層は恒常的な危機に見舞われてきた、というものです。真面目に考えて、その状態が続くことを願うばかりですが、黒人中間層とは何か、定義するのは大変難しい。もしそれを確固として存在する集団とみなすならば、そしてその集団を定義することができるならば、それは白人共同体にのみ存在する類型の他にはありません。わたしのニューヨークにおける経験から個人的に語るなら、自分が育った環境において、黒人中間層の人間に、あるいは彼の言葉遣いや冗談に、出会ったことなど一度もなかった。だがそのことさえ、もはや問題にはならないのです。
何故、白人リベラルは、幻想の中で、自分たちのために黒人指導者をでっち上げねばならないのでしょうか?最終的に、それは白人が私的財産を愛しているからです。私的所有物は、アメリカ的生活において特権的な地位にある。それは聖性を孕んでいる。窓ガラスが割れ始める時は常に、白人リベラルから黒人指導者なる者にお呼びがかかるのです。多くの歴史家が確認し議論し始めているように(13)、アメリカにおいて私的財産が聖性を孕んでいることには、大変切実な理由があるのです。歴史を通じて、アメリカにおける最も重要な財産は、手枷足枷をはめられた人間財産だったのです。わたしたちはこの議論をさらに武装し、次のように言わねばなりません。私的財産が保護される時は常に、白人中心主義のために保護されることなのだと。もし私的所有が、真に、生と自由と幸福の追求という三項の中の幸福の追求のためのものならば、その幸福と私的所有の存在は、黒人の生と黒人の幸福の否定によって約束されている。だからこそ私的財産の保護は、わたしたちが明確に攻撃の対象にせねばならないものなのです。
6現今の危機は、冷戦以降のアメリカ政治の二面性を引き継ぐ矛盾からきている。それらは帝国国家の主権とグローバル化する生政治的治安という二つの要請である。その結果、首都中心圏は、かつて植民地の周縁に縫い合わされていた、ある種の混沌と不安定を経験し始めた。
これらの力学が、今日われわれが生きている状況、そしてことさら過去二三ヶ月の間、われわれが確実に経験してきた状況を規定している。
一方で、わたしたちは、国家主権を、つまり古典的な国家の観念を持っている。シュミットにしたがって、さらにアガンベンにしたがって言うならば、国家にとって、その逆説的な基盤こそ、それが機能する仕方にとって、必要なものである、ということです。国家を定義するならば、国家は己を基礎づける上で、超法規的かつ超司法的方途を導入せねばならない。国家が己を基礎づける時は常に、それが創造しようとする法の外に出なければならない、ということです。古典的に生起してきたことであり、われわれがアメリカにおいて歴史的に経験してきたこととして、国家は、危機に直面する時は常に、自らを再構築する秩序を創出するために、例外状態を強要せねばならない、ということです。
たとえばわたしたちが南北戦争、二度の赤狩り、そしてより最近の対テロ戦争で観察したように、政府の行政機関は、その正規の法的枠組みを超えながら機能し続けるのです。
わたしたちは、今日ことにトランプに関してこれを観察しています。トランプは、彼の行政権を私用/悪用しています。というより、彼はそれらがそのために作られたそもそもの用法で使っているのです。そもそも司法のために準備された領域が、今やトランプ自身に乗っ取られたということです。
合衆国が自らを確固たるものとして表現するのは、外国との戦争においてです。わたしたちが留意しなければならないのは、これについては後で再び触れますが──さらにどういう訳かこれについては過去に30年、軽視されてきているのですが──アメリカは地球上における唯一の帝国であり、それを世界中で誇示している、ということです。ソ連の崩壊と冷戦の終焉の後で、アメリカは地球全体で唯一の警察あるいは突撃隊になったのです。これが統治の一面です。
これをもう一つの統治の形態、つまり生政治的統制あるいは生政治的保安と比較する必要があります。この後者は、古典的な国家による法の強制とは異なっています。むしろそれは、生の管理をになうものです。国家が一方で、殺人を犯すならば、生政治は、あくまでも己の目的のために、生を保護することに関与しています。
生政治的管理の最近の体制は、いわゆる「保安」です。「保安」がなすことは、管理しやすい形で、出来事を生起させることです。これらの出来事は多種にわたります。それはパンデミック、今日わたしたちが経験しているコロナ感染であり、飢饉であり、暴風カトリーナのような災害であり、まさにわたしたちが今育てようとしている蜂起でもありえます。国家がこうした折に為すことは、統計的な計算を駆使して、それらの出来事が一定の範囲内に留まり、受け入れ可能なあり方を見出すことです。
例外状況に見られる国家の逆説に加えて、今まさにわれわれが経験している、この奇妙な生政治的な防災体制にも逆説があります。この逆説は、通常以下のように進行します。パンデミックや飢饉などの災害の後には、保安装置の内部で、次の災害に備える動きが現れます。2000年代のSARSの後で、次に来たるべきパンデミックに備える動きが起こりました。その時、それが来るだろうと予想された時に来ないことが明らかになると、予備的準備が当面据え置きになります。高名な医学系人類学者アンドリュー・ラコフが、わたしたちが最近観察した、この逆説に注意を喚起していました。パンデミック対策は議論されていたが、それが据え置きになったために、コロナ19が来た時、わたしたちはそれに対応しえなかった。つまりわたしたちは二重の逆説に直面しているのです。一つは自らを基礎づけるために自らの外に出ること、そして二つ目は、常に準備不十分を醸成する防災体制の循環です。
かくして古典的な形態の国家、国民国家、そしてよりグローバルな治安操作には、法的側面そして統計的側面があります。そしてわたしの考えでは、これら二つの指標は互いにぶつかり合って、ある種の危機に陥っています。
司法的な手続きそのものが、恒常的な危機に陥っています。トランプは何一つまともにすることができない。彼が何をしても悪影響が起こり、常に最悪の結果をもたらす。トランプと彼の狂った頭脳が、アナーキーを引き起こしている(14)。もちろん、彼はそうは思っていない。この混沌が常態化した時に、それを好機としえるかどうかはわれわれ次第なのです。わたしが言いたいのは、わたしたちは、国家が自らに課しているこの混沌を、生きる必要があるということです。
リベラルや改革主義者と違って、わたしたちは、法と秩序を再肯定し、再強化することを目指してはいません。わたしたちはアメリカを大きな「セーフスペース」に変えることを目指していません。わたしたちは混沌と無秩序を、これまで以上に悪化させることを目指しているのです。
わたしたちは、革命家たちが常になしてきたことをしなければなりません。つまりわたしたちは、矛盾を耐えがたいものにせねばなりません。
7ハイチにおいて反乱奴隷が黄熱病の定期的発生を方法化したように、現在のコロナ感染を権力に対する武器に転化する、隠された抵抗的知性が存在する。
「架空の党」による最良の書物『われわれの友へ』(15)において、作者たちは災害対策についての疫病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention )のパンフレットに触れている(16)。これはアメリカのティクーン派が通常触れない主題です。疫病管理予防センターは、災害対策を若者たちの関心や趣味に合わせるために、ゾンビーの終末的出現への対策を喚起しているのです。彼らの基本的議論は、ゾンビーの出現への準備が可能ならば、洪水や台風やパンデミック、あるいは蜂起に対してさえ防災が可能である、というものです。
この本において不可視委員会は、ゾンビーへの恐怖は、間違えなく、黒人労働者階級への恐怖につながる、長く人種化された歴史に宿っていると言っています。そして語られることがない、語られることを拒絶する、あるいは抑
されている、この恐怖のもう一つの側面は、白人中産階級の自らの無価値性に関する偏執的執着に宿っているのです。
ゾンビーの歴史を遡求してみると、その比喩形象は、ハイチ革命の間に用いられていたヴードゥー信仰に現れています。ジャン・ゾンビーという人物がいたのですが、彼は奴隷所有者たちの殺害に参加したことから、この名前で知られるようになったのです。ことさらわたしたちの今日の志向性にとって意義深いと思われるのは、ハイチの反乱者たちが、ナポレオンの軍隊だろうと、より一般的な秩序党だろうと、彼らのかつての主人たちに対して、かつ軍隊に対して、黄熱病の感染を使って攻撃することができるとはっきり考えていたことです。反乱者たちは、黄熱病の感染が広がってゆくのを待っていたのです。彼らは、かつての奴隷所有者の軍隊が、パンデミックに飲み込まれることを知っていた。それに対して、彼ら自身は、パンデミックに対する免疫をすでに培っていることを認識していたのです。そこで彼らは、軍隊が黄熱病によって殺され始めるのを待って、ゲリラ攻撃を開始したのです。
わたしがここで主張したいのは、これと大変似たことです。わたしたちは皆、黒人やラテン系の人々が、比較にならないほど甚だしく、コロナウイルスに感染していることを知っています。これは医療問題です。しかし単なる医療/科学問題を超えて、政治的問題にも成っているです。わたしたちは、パンデミックを単に恐れ、マスクや距離を強調する公衆衛生の言説、つまり衛生化された保安をめざすリベラル政治を拒絶せねばなりません。わたしは、現在これがまさしく政治的問題であることを知っています。しかし、その反面で、わたしはパンデミックが存在しない、あるいは単なる流感である、などと主張する右翼の陰謀論を防衛しているわけではありません。わたしがここで言いたいのは、パンデミックをわれわれの目的に役立て、われわれの敵に対する武器に転化するための、わたしたち自身の知性、反逆の知性を発展させようということです。
8蜂起は、暴動の配置の中の厳密な調整を必要とするだろう。それはどのような統制をも超えた、無秩序の逆説的な組織化である。したがって蜂起の問題は、社会的/技術的という双方の次元を含んでいる。
わたしが主張しているのは、無秩序の秩序という逆説です。たとえばラップグループのOrganized Konfusionを思い起こしてください。これを実現するには、戦術を徹底的に練磨せねばならない。破壊する対象を、略奪する対象を、研究せねばならない。どのような場合に、何故、一定の占拠が有効で、有効でないか理解せねばならない。自分たちが巷で実現する混沌を、戦略的に志向せねばならない。
それに加えて、わたしたちは、これらの闘争と戦術を強化するために、新しい戦術と闘争と戦略の形態を案出する必要がある。わたしたちは、開発の嵐にさらされているすべての都市が直面している、強制立ち退きに対抗する、占拠や家賃ストに備えねばならない。しかし同時に、わたしたちは防衛的闘争を超えて、より攻撃的な創造性と戦術を培わねばならない。実際、わたしがここで主張しているのは、暴動からストライキから封鎖を含む、労働者の戦略の総体を駆使する必要性なのです。
しかしわれわれは、自分たちの戦術と戦略に関して、創造的でなければなりません。最近のツイッターのハッキングに見られるように、これらは本当に重要なことなのです。重要なことは、わたしたちがそれらの戦略と戦術を展開する上で、創造的であることなのです。
1937年5月初頭、バルセロナの電話局で起こった激しい衝突に匹敵するものは、今日何だろうか?革命ロシアにおける反乱労働者が、かくも激しく戦ったペトログラードの鉄道に匹敵するのは、今日何だろうか?わたしたちが巨大な国に生きていることは、極めて特異な問題なのです。わたしたちは、この距離を破壊しそれを自分たちの純粋な方法に転化する、創造的方法を編み出さねばなりません。
9ボロボロになった帝国の断片を、さらに断片化することで、二度目のよりバルカン化した内戦という現前し続ける亡霊を物質化しよう。
少なくともトランプが大統領になって以来、内戦の原型が、この国全体を漂っている。これには歴史的な理由がある。南北戦争は、ある人々にとっては、この国が集合的に経験したもっとも外傷的な経験で、他の人々にとってはもっとも開放的な経験だった。だからそれは集合的な想像性の中で、継続的に想起される比喩形象になっている。しかしこれには構造的な理由があると思われます。国家の根本的な操作は、どこにでもある内戦の脅威を回避することに捧げられています。国家なるものは、おおよそ内戦を封じ込め禁止するものなのです。そしてこの国について特殊なのは、わたしたちの内戦の理解の仕方につきまとっている、特異な解放の伝統なのです。
わたしはここでケネス・レクスロスの優れた自伝を引用したいと思います。そこで彼は、南北戦争に参加した過激な廃棄主義者たちこそが、アメリカにおける社会主義的、アナキスト的、共産主義的労働運動の第一世代である子供達を産んだ、と述べています(17)。しかしわたしは、最良の例は、デゥ・ボイスの古典『Black Reconstruction』(18)だろうと思っています。奴隷制を最後に葬りさったのは、かつての奴隷たちによるプロレタリア的ゼネストだったということです。まさにこの解放的でありながら、暴力的な内戦の伝統こそが、新しい文脈でその回帰を望まれているのです。もう一つの重要な先例は、ハリー・ヘイウッドの「ブラックベルト理論」です。アメリカ共産党中央委員会のメンバーだったヘイウッドは、アメリカ合衆国の革命は、南部における黒人の独立国家を含まねばならないと言っています。これはもはや有効ではないでしょう。しかし彼が把握していたのは、彼が対象化しようとしていたのは、ひたすら巨大な国における革命の問題でした。
革命は、ここでわたしたちにとってひたすらスケールの問題として立ち上がっています。だからこそ、わたしが思うに、ヘイウッドは、アメリカの分解を主張したのです。わたしたちは、ここまで巨大な産業化された近代国家における革命の先例を持っていません。だからわたしたちは、ユニークな問題に立ち向かっているのです。
それがどのようなものか、わたしは知りません。確かなことは、この国がすでに解体し分解し始めているということです。そしてそれをさらに破壊し分解して、もはや元に戻らないようにするのは、わたしたちの他にありません。
革命は、他のどこよりも、ここにおいて、分断という厄介な使命を孕んでいるのです。これについてもまた、わたしたちは特異な問題に直面しています。過去四十年間に、他の国々の内戦に出現したような醜く危険なナショナリズムを避けねばならないということです。わたしはユーゴスラビアやシリアで起こったことを望んでいるわけではありません。それでもなお、わたしたちは内戦を、解放に向かう趨勢として育てねばなりません。最終的な目標は、アメリカを、コミューンの連合の集合的配置に向けて分解することです。
10この革命という企画の完成は、最終的には、わたしたちそれぞれが死者と被抑圧者に対して不可避的に負っている倫理的な責務である。
ナイーブに聞こえるかもしれません。それでもわたしは、わたしたち皆が観察し、願わくば参加しもしたこの夏の暴動が、蜂起へのそして全面的な革命への扉を開いたと信じています。わたしがそこで開示された可能性について、誤読していることもありえます。それでもなお、現今の暴動に参加して、自分の実在の核の決定的な変革を経験しなかった人はいないでしょう。わたしについては、そしてあなた方の多くにとって、今や革命が魂の深みに宿っていることを、そしてそれがわたしたちの射程そのものを、生に対する姿勢そのものを変えたことを知っています。蔓延しているすべての冷笑主義、すべての理性的自己利益、すべてのニヒリズム、典型的なアメリカ市民を形成しているすべてが、この蜂起と暴動によって、ゆっくりと摩滅しています。
このことがわたしたちに示しているのは、革命は真にわたしたちを超えたものである。真にここにいるわたしたちそれぞれを超えたものである、ということです。それは、アメリカ個人主義によって押しつけられたすべての境界を超克しています。それは、わたしたちに、自分たちを超えて全てを見ることを強制し、アメリカが一世紀の間、帝国として世界を蹂躙し尽くしてきたことを認知させるのです。
そしてこの戦いは、生者のためだけではなく、死者のためでもあるのです。わたしたちは、一秒の自由さえ知らなかった数億人の奴隷に対して、革命を負っているのです。この暴動の間に死んだ幾多の殉教者たちに、わたしたちは革命の完成を捧げねばなりません。
パゾリーニが、アメリカの旅に関する随筆で書いています。彼がここで本当に感動したのは、今では誰も言わなくなっているが、公民権運動を支えていた言葉、「われわれは全身全霊を闘争に捧げねばならない」だったのです(19)。
闘争の死者が、復讐を叫んでいます。そしてわたしたちは彼らの死の仇を打たねばなりません。ベンヤミンが言ったように、「敵が勝利するなら、死者さえもその敵に対して安全ではないだろう(20)」。今夜こそ、これらすべての落とし前をつけ、奴らの地球支配を終わらせ、死者たちを安息させる、最初の夜になるでしょう。
注
[1] <https://www.redmayseattle.org>
2 <https://illwilleditions.com>
3 2020年7月19日、シアトルの抗議者たちは、ビジネスを破壊し、店舗を略奪し、火を点けた。
youtube.com/watch?v=67D8HZh4BOI
4 Nikolay Gavrilovich Chernyshevsky, A vital question; or, What is to be done?. archive.org/details/cu31924096961036 チェルヌイシェフキー『何をなすべきか』
5 Vladimir Lenin, What Is To Be Done?. marxists.org/archive/lenin/works/1901/witbdレーニン『何をなすべきか』
6 Tiqqun,“How is it to be Done?”voidnetwork.gr/2012/07/18/how-is-it-to-be-done-by-tiqqun「どうしたらいい?」『VOL』4号、2009、以文社
7“From coastal cities to rural towns, breadth of George Floyd protests – most peaceful – captured by data”, USA Today, June 10 2020. usatoday.com/story/news/politics/2020/06/10/george-floyd-black-lives-matter-police-protests-widespread-peaceful/5325737002
Interactive Map: Protests in wake of George Floyd killing touch all 50 states. ipsos.com/en-us/knowledge/society/Protests-in-the-wake-of-George-Floyd-killing-touch-all-50-states
82020 deployment of federal forces in the United States. en.wikipedia.org/wiki/2020_deployment_of_federal_forces_in_the_United_States
9 Peggy McIntosh,“White Privilege: Unpacking the Invisible Knapsack”racialequitytools.org/resourcefiles/mcintosh.pdf
10 Chris Chen, Idris Robinson, Iyko Day, John Clegg, Sarika Chandra, Shellyne Rodriguez, “Racial Capitalism & Disposable Populations in the Time of covid”. youtu.be/MHMeYtYHiKM
11 James Baldwin,“Going To Meet the Man”. cristorey.net/uploaded/Academics/2019-2020/Summer_Reading/James_Baldwin_Going_To_Meet_the_Man.pdf
12 “Extensive Data Shows Punishing Reach of Racism for Black Boys”, New York Times, March 19 2018. nytimes.com/interactive/2018/03/19/upshot/race-class-white-and-black-men.html
13 John Clegg, “How Slavery Shaped American Capitalism”,
_jacobinmag.com/2019/08/how-slavery-shaped-american-capitalism
Robin I. Einhorn, “Slavery”. cambridge.org/core/journals/enterprise-and-society/article/slavery/EAF172288A7718B082A074603D149A48
14 Marten Bjork, “Phase Two – The Reproduction of This Life,”
_tillfallighet.org/tillfallighetsskrivande/phase-two-the-reproduction-of-this-life
15 Invisible Committee, To Our Friends. theanarchistlibrary.org/library/the-invisible-committe-to-our-friends (『われわれの友へ』2015年、夜光社)
16 Zombie Preparedness. cdc.gov/cpr/zombie/index.htm
17 Kenneth Rexroth, An Autobiographical Novel. bopsecrets.org/rexroth/autobio/index.htm
18 W.E.B. DuBois, Black Reconstruction. webdubois.org/wdb-BlackReconst.html
19 Pier Paolo Pasolini, In Danger: A Pasolini Anthology.
20 Walter Benjamin, “On the Concept of History” _sfu.ca/~andrewf/CONCEPT2.html ベンヤミン「歴史の概念について」