野宿者運動は何を問うてきたのか

山谷1990/2022

NEZUMI


現在にいたる山谷・釜ヶ崎の闘争は釜共闘と山谷現場闘争委員会を起点としている。その端緒は船本たち広島大グループと呼ばれる若者たちが68年に山谷に立ち寄り暴動に遭遇したことである。暴動に衝撃をうけた船本たちはその経験を手放すことはなかった。そこで船本たちはただその暴力性だけに惹かれたのではない。暴動を不可避の表現とする労働者たちの身体の光と闇が彼らを寄せ場へと招き寄せたのである。ここではそれを仮に「暴動的身体」としておこう。

山谷においてこの船本たちの思想性=戦闘性は6・9闘争の会を経て山谷争議団の闘いの中で引き継がれ、金町戦の端々でも発現された。4・3暴動をはじめとするこの闘争での輝かしい局面はこの「身体」によって開かれたのだが、金町戦の主軸はそれとは異なる方向ですすめられ、やがて後退していった。船本の盟友であり、金町戦の指導的位置にあった風間竜次はこの闘争の敗北を近年になって自己批判的に総括していたが、その趣旨をこの文脈におきかえれば敗北は「暴動的身体」を見失ったことによる。佐藤満男と山岡強一による映画「山谷」はこの「暴動的身体」を未来へとつなげる試みであったということができる。

山谷労働者福祉会館が建設された1990年にバブル経済が破綻して全国で路上生活者が激増したが、これは当然にもまず寄せ場を直撃した。これによって山谷などの寄せ場の運動も野宿者の闘争へと転換を強いられた。その中で路上生活者が一気にふえた新宿に対応すべく山谷と渋谷から活動家が結集して新宿連絡会が結成され、これにあわせて山谷では「山谷と新宿をつらぬく反失業闘争実行委員会」が結成された。山谷センター前での共同炊事はこの時に開始された。これに対して争議団内の某党派系メンバーは「反戦・反失業を闘う山谷労働者実行委員会」をたちあげ対抗した。従来のまま現場闘争を主軸としようとした彼らにとって野宿者運動への軸心移行はあってはならない「路線転換」であった。これが野宿者運動をめぐる第一の分岐であり、この対立は9512月の山谷争議団の分裂をもたらした(分裂を強行したグループはその後、組合を名乗って活動している)。

この分裂と同じ時期、新宿西口に形成されていたダンボール村を解体するための「動く歩道」を阻止する闘争が焦点となり、961月の着工に対しては日雇全協は全国結集で抵抗して路上が戦場であることを社会に知らしめた。この時点では野宿者の生の拠点としての路上占拠を支えることが闘争の焦点であった。

これが転換するのは98年である。新宿西口ダンボール村で火災が発生して仲間2名が死ぬという痛ましい事態がおこった。新宿連絡会はこれを機にダンボール村から仲間を撤退させて行政に野宿者対策を求めるという方向へ運動の舵を切った。これを山谷、渋谷も支持して全都実行委員会が結成され、自立支援センター設立要求運動が開始された。また、釜ヶ崎でも「釜ヶ崎就労・生活保障制度実現をめざす連絡会」が結成され、行政の要求運動が取組まれた。当時の運動にとっては野宿者が街頭に出て要求行動を実現するということが画期的であり、そのことが重要だと考えられていた。行政はこの要求を概ねのところで受け入れるとともに、逆手にとって自立支援を全国的な施策としてうちだすとともに排除の意図を明文化した「ホームレス自立支援法」を制定した。この評価をめぐって運動は二分された。新宿連絡会、釜日労によるNPO釜ヶ崎などはこれを支持し、山谷、渋谷は反意をしめした。当時、各地でホームレス支援運動のNPO化がすすめられており、この法案がそれをとりこむことを意図したものであることも明白であった。これが野宿者運動をめぐる第二の分岐である。

2000年代はこの法制度と運動のNPO化を条件として排除と暴力支配が新たな段階に入った。大阪では釜日労にかわって、釜ヶ崎パトロールをはじめとする野宿者運動が闘いの前面にたって、長居公園などの強制撤去への闘争が闘われた。東京では大不況への突入下、労働者への足下を見るような悪質な業者が跋扈し、これへの闘争が取り組まれた。また野宿拠点の排除を意図した自立支援センター政策の破綻に対処すべく都内では新たな排除政策として「地域移行支援事業」が開始された。これは2年間月額3000円のアパートを保証して野宿者に拠点を放棄させ、そこへの新規流入を禁止するというものである。山谷ではこれへの実力抵抗とその総括の中から運動スタイル自体を更新させていくこととなった。当時の反グローバル運動が参照され、野宿者自身の自己組織化として闘争をたちあげることが中心的な課題となった。そしてこのための場として共同炊事が再設定された。

その過程で山谷では生活保護の集団申請に取りくむことになった。当時、路上からの生活保護申請は受け付けられず、かわって生保を中間搾取する悪質な施設が横行していた。一方、NPO派は「地域移行支援事業」を支持し、生活保護以下の政策を積極的に受け入れていた。これに対して路上からの申請を集団で行うことでこの事態を打ち破ろうとしたのである。この闘いによって路上からの生活保護が認められたものの、以降、行政はこれを逆に野宿拠点の解消のために利用するようになった。

2011年以降、東京東部で焦点となったのは堅川である。すでに2000年代に集団で占拠状態をつくりだしていた堅川は2度にわたる行政代執行を打ち返すという画期的な闘争を展開した。この最中で山谷争議団結成以前から第二の分岐にいたるまで長く山谷で闘争をともにしてきたブント系党派支援グループから拠点防衛闘争を「左翼空論主義」と批判し、現下の課題を「居住権」に焦点化させ占拠闘争に対して生活保護取得を対置する文書が出された。これに対する活動家からの批判にたいして党派支援グループは活動家への個人攻撃をもって対応した。

2020年のコロナ禍においてそこで問われた問題はふたたび回帰してきた。山谷ではコロナ禍のための困窮への対応としてセンター前で連日の炊き出しが取り組まれたが感染拡大を避けるため対象者を生保受給者以外にしぼるという選択がなされ、越年闘争でもその方針を維持することが確認されたが、先の党派支援グループはこれを生活保護受給者への差別であると指弾した。

その際、このグループが問題にしたのは山谷の中心的活動家が対外的なコロナ禍の闘争報告において、野宿者が生保を拒否していること、その身体性にこそ階級性が刻印されていることを強調したことであった。この支援グループは1)コロナ禍での苦渋の決断としての対象者の限定と2)野宿者の階級性への着眼を(おそらくは意図的に)混同させた。すなわち野宿支援重視の表明とコロナ禍で炊き出しの対象を生保の非受給者に限定したことをもって生活保護者差別としたのだが、これは二つの次元の異なる問題である。

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そこで問われたのは野宿者運動開始以来の主題、すなわち野宿=路上占拠を支持するとは何かという基本的な問題に他ならない。路上派は何を守り何のために闘おうとしてきたのか。かつては「生存権」がその時に持ち出された。しかし行政は生活保護という「セーフティーネット」を野宿者に対してはなかば無条件に認め、かつ推奨している(この現実を先の党派支援グループが知らないようだが、一度でも行政交渉に参加すればたちどころに知ることができるだろう)。生きるための野宿という言明ではこれに抗することはできない。そして排除の非人間性を糾弾するだけでも不充分であるかに見える。生活保護を拒否している仲間は厳然としており、これこそ闘いの基礎である。ではそこで何が闘われているのか。

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釜ヶ崎もまた同様の軌跡をたどった。90年代後期、釜日労はNPO化をすすめ自立支援法を支持した。また、「まちづくり」の運動が居住権を掲げて始動したのも、この時代だった。こうして釜ヶ崎内の運動がリベラル化へと傾いていくなかで、野宿=路上占拠を肯定するラディカルな運動は、むしろ釜ヶ崎外の場所から生み出された。その先陣を切った釜パトは扇町公園を拠点としながら、反排除闘争や悪質現場への闘争をすすめた。2000年代には長居公園などのテント村に対する抵抗闘争がとりくまれて闘いは新たなひろがりをつくりだした。一方、行政と資本は釜ヶ崎の観光資源化をも意図した再編成を画策し釜日労やリベラルはこれを積極的に賛同した。現在なおつづく釜ヶ崎センター占拠をめぐる攻防はこれを凝縮するものであり、ここでも問われているのは同じ主題である。

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ここでかつての自立支援推進派=NPO派の主張をふり返っておこう。釜日労を指導する党派の野宿者運動論は以下のように主張した。「大失業時代の到来により、資本主義のシステムの内部で生存を保障されなくなった大量の労働者が、国家に保障されない・統合もされないで、自らの力で生存の在り方を形成しなければならず・形成できるようになりつつある。労働者が日々の闘いと結合して、事業と地域社会の建設に踏み込む流れの拡大は、必然である」。「それは、支配の安定と引き換えに、資本主義の社会的地位の没落を加速することでもある。」「野宿労働者の運動も、野宿の脱出と野宿の予防を目標とする・そのためのシステムをたたかいとる過程において、新しい社会を創出する総過程の構成部分としての目的意識性を強めてきているのである。支援法制定の要求は、こうした路線から生まれ、こうした路線を台頭させたのであった。」野宿者の発生自体が資本主義の危機の表現であること、またその危機において行政に失業補償として仕事を出させることは理解できるとしても、これを「支配の安定と引き換えに」してまで労働者組織が請け負うことがなぜ「資本主義の社会的没落」「新しい社会」につながるのかは決してあきらかではない。彼らの描きだす釜の労働者はNPOが請け負う仕事にいき、彼らの運営するシェルターに宿泊し、政治闘争のデモに出かけるということなのだろうか。すでに彼らは自分たちの未来を予告していた。「今日の野宿労働者の運動の戦略的目標は、「生存権」や「労働権」の確保に止まるものではありえない。そのような権利のために闘いつつ、野宿の根源を覆す革命を準備していかなければならない。事業は、このような革命的活動を支える大後方である。事業がここから外れるとき、それはブルジョア階級支配の安定装置に成り下がる」(以上の引用は労働者共産党寄せ場委員会のサイトより)。「ブルジョア階級支配の安定装置」こそ彼らの現在である。

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彼らは船本たちをこう批判した。「当時の運動の主流を成したこの傾向の人々は、ブルジョア社会における寄せ場労働者の経済的地位(=相対的過剰人口)を正しく把握していなかった」。マルクスは「産業予備軍」を資本の人口動態として分析はしたが、これは「過剰人口」が資本主義の不可能性としてあることを示したとしても「包摂」のためではない。では「過剰人口」とは何か。「エンドノーツ」は次のように書いている。「1970年代以降、過剰人口は着実に拡大してきた。過剰人口の成長は本質的に階級統合を解体し、断片化させていく」。「安定(セキュリティ)のない世界では、正常であるという主張、確固としたアイデンティティをもちつづけているという主張をすることはできない」「広場には、こうした断片化されたプロレタリアたちのさまざまな容貌が現われていたのだ」(「待機経路:進行中の危機と201113年の階級闘争」『エンドノーツ』3号、「HAPAX2号)。「過剰人口」はアイデンティティの拡散と分裂をこそもたらす。ルカーチやマルクスをあえて引き合いに出せば彼らにとっても実のところ「プロレタリア」はアイデンティティではなく、あらゆる階級のみならずアイデンティティそのものを廃絶することができる階級であり、これを生成させるのが階級意識だった。そしていまや階級意識はヘーゲル的な世界史を担うのではない。分裂を生成させ、歴史を崩壊させるのだ。

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「過剰人口」とは資本主義の外部であり、闘争は「過剰人口」によって、「過剰人口」のためになされる。革命にとって「下層」がつねに立ち返るべき「原点」の相貌をもって登場するのはそこに根拠がある。船本は「産業予備軍」に対して「流動的下層労働者」規定を対置したとき、これを予感していたはずである。だからこそ行政は「過剰人口」を生活保護制度などの諸制度で包摂する。これが広義の意味での治安政策であることは山谷では生活保護がいまや行政によって積極的に推奨されていることでもあきらかである。逆説的だが制度を維持させているのは少数であれ野宿者による占拠が継続され、野宿が支配にとっての外部性として存在し続けているという事実性なのだ。生活保護は(あらゆる制度がそうであるように)包摂の装置という側面をもつ。これは資本と権力による「過剰人口」に対する緩慢な遺棄の過程でもある。対抗する側に要請されているのは野宿者と生活保護の間隙に引こうとする支配の分断線を追認することではなく、この分断線を超えていく闘争である。「過剰人口」化をめぐる攻防は資本主義のリミットをしめしている。「エンドノーツ」は「アラブの春」に「過剰人口」による政治の開始を見出した。「アラブの春」は今日の戦争に至る巨大な「崩壊」の始まりであったことをここで想起しておこう。

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これらは野宿=路上占拠の真の政治性をあきらかににする。それが問うのは「生存権」に先立つ、もはや「権利」などという法的・近代的な規定をこえた生そのものである。そしてそれこそが船本たちが山谷暴動との遭遇で予感していたものではないのか。国家と資本主義が下層人民を収奪し住居を奪い野宿においやった。そして仲間たちはそこでそれぞれの生を見出した。野宿は仲間たちの身体に刻印された権力と資本の暴力に対抗しつづけることによる新たな生の生成である。野宿とは抵抗それ自体であり、抵抗としての生のモデルなのである。身体に刻印された受苦を手放さないことが闘争なのだ。釜共闘、山谷現闘委の闘いから生まれた「やられたらやりかえせ」というスローガンはつねに闘争そのものをさししめしているのである。

(関西の友人に一部補筆いただいたことを感謝する)

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