サパティスタ・オートノミー:脱構成の実験? ジェローム・バシェ
小田巻郁哉訳
以下はillwillに2022年に掲載されたテクストである。バシェはここでサパティスタを脱構成的実践として捉える。サパティスタが30年にわたって、つねに同時代の闘争にとって新しいモデルであり続けたのは、当初から脱構成的であったからではないか。解体と再生が伝えられる今こそ読まれるべきものである。なお前回記したようにこれも次号に収録される。(HAPAX)
イントロダクション
チアパス州でサパティスタによる実験が四半世紀以上にわたり行われている。この実験は、こんにち世界中あらゆる場所にある注目すべき生きたユートピアのうちのひとつである。サパティスタはこの実験を「オートノミー」という言葉にまとめあげる。ジェローム・バシェは以下の文章で、サパティスタによるこの実験がオートノミーという概念にいかなることをもたらしたのかを記述している。自己の統治の実践を遂行することを通して、オートノミーは非国家の政治の表現として現れ、国家政治との違いという問いを新たに浮き彫りにする。同時にオートノミーは生によりそうものとして理解される共的な生の形式を精緻化することでもある。この言葉が意味するのは、そこ以外の場所において冷酷であり破壊的であるような経済の他律的な押し付けに対して抗う能力である。このサパティスタ反乱軍の実験を、破壊的なプロセスの極めて具体的で不純なひとつの例として考えることができるのだろうか?
サパティスタ運動の遺産は、1994年1月1日の大胆な武装蜂起に還元されることもある。「ジャ・バスタ![ルビ:もうたくさんだ]」の叫びは、当時はまだ闘いの対象ではなかった新自由主義モデルの優位性に挑戦し、いわゆる 「歴史の終わり」を告げる大合唱に反論した。さらにその後、サパティスタたちは「人類のための、そしてネオリベラリズムに抗するための大陸間会合」(1996)、「大地の色の行進」(2001)などという活動や異例の宣言を行い、(新聞の)大見出をしきりに飾ることになった。しかしさらに探らない限り、1994年以来創立された二十七のサパティスタたちによるオートノミー自治体を連合する五つの「善き統治の評議会」などといった、2003年以降に力と深みを増すことになるオートノミーにおける領土と実践の実験という重要なサパティスタの側面を見逃すことになる▼1。それらによってサパティスタが資本の商業化の規律や国政への適合に拒否する集合組織をいかに作り出すかの例として、ロジャヴァ革命のクルド人たちと並び称されることが多い。難題や限界をもちながらも、チアパスの反乱軍領土で作り出されたものごとは、地理的な広さ、継続期間、過激さ、どれをとっても今日の世界のどこかに存在する最も注視すべき解放の空間—または真のユートピア—の一例である▼2。
サパティスタは、触知可能な別の世界—単に実現可能なだけでなくただちに必要とされるべき世界—をいま現在のなかに作り上げる彼らの努力を言い表すとき、オートノミーという言葉を使う。これからその主な特徴をまず手短に要約してみよう。それがサパティスタの実験がオートノミーという概念に何を為す[強調]のかを分析するための妥当な基盤となるだろう。彼らのオートノミーは明白に集合的なものであり、現代的な個人主体のオートノミーとの間に何ら共通するものを持たない。とはいえサパティスタにとってオートノミーは、とくべつ先住民的なものでは必ずしもないためにILO169号条約のような国際条約によって先住民たちに与えられたオートノミーの権利などにも限定することはできない。彼らのオートノミーに対する捉え方は、代行性への批判を特徴とした闘争の伝統と合致したものであり、そしてこの場合、それはつまり国家を中心としない政治を肯定すること、端的に言えば非-国家の政治である。国家の政治と非-国家の政治の違いを具体的に概説する必要があるが、同時にそのアプローチだけでは不十分である。このサパティスタのケースにおいて現れたこのオートノミーが十全に意味を持つのは、生の諸形式がふさわしいものとして受け入れられたうえで、それをオートノミーが拡大させることが出来る限りにおいてである。これには何よりもまず、経済世界を構成する諸規律の強制に対して抗うことや離脱することが伴う。オートノミーとはその最も広い意味で捉えれば、それはサパティスタが言い示すように「新たな生を作り出すこと」である▼3。ここに注目することでようやく、サパティスタ反乱の実験が極めて具体的でありながら不純な脱構成プロセスの例であるかどうかを検証するための基盤となるだろう。
ふさわしき生のあり方を守り、拡張すること
サパティスタのオートノミーとは、自らの出現を到来させ、かつそれ自体の異質性を説明するようなある特定の出来事の産物である。しかしここではこの主題に関しては言及せず、読者には別の研究を参照してもらいたい▼4。まず自己を統治するサパティスタたちの組織体やその手続きに注目する前に、反乱者たちがそれを守るべく闘っている生のあり方を説明しなくてはならない。そしてそのあり方は、資本主義の基本的な範疇であるヘテロノミー性から大胆に脱却するものであると主張することができる。
サパティスタたちのオートノミーにおける実験とは、土地や領土との特定な関係に密接に結びつく生の共的な形式への苛烈な献身の表現である。このようなリアリティはグローバル資本主義がどのような手を用いても排除したい対象であるため、この時代においては全く異例なことである。チアパス州のマヤのサパティスタや、またコングレソ・ナシオナル・インディヘナ(全国先住民会議)に参加している先住民たちにとって、その生のあり方を守ることには困難な闘争が必然的に伴うが、オートノミーは彼らのその立場を強固にさせるものである。そこには例えば土地の共同保有を抹消しようとするネオリベラル政策の施行を拒否し(1992年の憲法27条改正によって開始された)、市場農業の成長を推進させる計画やNAFTAの影響に抵抗すること、また彼らの領土に行われる採鉱、資源、観光業、インフラなどの巨大計画—例えば「トレン・マヤ」など悪しき名付けが行われた鉄道計画などに対しての防衛が含まれれる。
彼らのコミュニティの実践は先住民の伝統に根を下ろしたものであり、時代を超越する本質から生まれてきたようなものではない。そのため彼らの生の中には集合的エートスが浸透しており、それはさまざまな仕方で現れ可視化される。とりわけ議論や意思決定のためのアッセンブリの開催、相互扶助の行使や集合的な活動、祝賀や儀式の重視、そして集合的な土地の保有などでそれが見られる▼5。耕作地帯や居住地域、森や山などを含めた彼らの領土は生のサイクルにとって欠かせないものとして考えられている。この領土は共同体にとってふさわしい場所でありここなしに何も考えることはできない。土地は、耕作の畑でありながらも同時に所有され得ない全てを包む生命力であり、そしておそらく母なる大地として名づけられた土地であるようだ。「サパティスタ、そしてメキシコの先住民である我々にとって、大地とは我らの母であり、記憶であり、先祖の眠る場所であり、そして我らの耕作や我らの生のあり方の家なのだ。[…]。大地は我らに属するのではなく、我らが彼女に属するのだ。」▼6
とはいえサパティスタの共同体へのアプローチは一般的な形では行われない。上記のような防衛的な戦いにおいて彼らは自らの生を危機に晒しながら、固定的で排他的な先住民のアイデンティへ接近することに対して警戒を怠らない▼7。具体的に言えば、彼らの共同体の生への主張は、生を活性化させること、そして生を解放へ向けて変形させるために力を注ぐことと結びついている—特に女性たちは伝統的ジェンダー関係を変えることで最も多くのものを得ることから、この二つの課題に精力的に自らを投じている。
生の共的なあり方の刷新の例として、農生態学(アグロエコロジー)を通じた数多くの生産分野における共同作業の拡大、また小規模農の発展が挙げられる▼8。後者は1994年の蜂起ののちに数万ヘクタールの耕作地が回復したため、面積が拡大していった。これらの土地は新たな村の構築や集合的な活動の新たな形態の展開を可能にさせ、さらにオートノミーやEZLN(サパティスタ民族解放軍)の国内および国際的なイニシアティブを作り出すための諸計画を支援するための、共同体・自治体・地域規模内の農作物や家畜の生産を展開させる。サパティスタが強調するように、彼らの主要な生産手段である大規模の土地が回復したことは、オートノミーを作り出すことを可能にさせた物質的基盤となった▼9。
特に注目すべきなのは、サパティスタが国家機構の外側で相当数の動員を行い独自の医療制度(地域の診療所、小規模の市立病院、すべての共同体に駐在する医療従事者たち)、そして独自の教育制度を作り上げたことである▼10。彼らは初等学校、中等学校、発達・教育カリキュラムやプログラムを作成し、また授業を行う若者たちに、「多くの世界が適合するひとつの世界」のための闘争を共有させ、共同体の具体的な経験に根付く教育への意志が伴うような訓練を受けさせた。これらの成果がほとんど金銭のやり取りや賃金形態に依存することなく達成されたことは、とりわけ注目に値する▼11。「健康プロモーター(promotores de salud)」、教育をプロモーター(promotores de educacion)は金銭を受け取ることはなく、賃金の代わりに共同体が彼らに物質的必需品を与え、あるいは土地がある者に対しては、代わりの賄いとして彼らの区画を耕す。こういった異例の交換様式によって、オートノミーを構成する集合的な行為が可能になり、資本主義世界に特徴的な形態—何よりもまず貨幣や賃金の使用が最小限に限定されるのだ。サパティスタ反乱軍は、生産主義、数量的過剰主義、経済的世界の規範を基礎とした競争主義のあり方の拡大などといったものの要求から大きく脱却してきた。そうするにあたり彼らはヴィダ・ディグナと呼ばれる、個人の存在をその集合的性質や非人間的世界との関係性を通じたものとして捉える考え方や、生のもつ質的な側面に重みづけをする倫理、「良く生きる」の倫理を守るために闘争するのだ。とりわけそこに時間による圧力がないことは、現代社会が抽象的で加速された時間に影響されていることとは顕著なまでに対照的である▼12。
自己統治の組織体
ここからチアパス州の反乱軍の領土に創立された政治組織について話を移そう▼13。この組織は三つの水準で実行される。共同体(村)、自治体(数十の村を含んだもの)そして地域(複数の自治体に渡って連携を認められている広域)である。それぞれの水準において、二、三年のあいだ任期を務めるアセンブリや選出され権限を与えられた者達が存在する(例えば、自治体レベルには自治体取組人、そして各地域には「善き統治の評議会(Junta de buen gobierno)」がある)。
ここで「善き統治の評議会」の活動に焦点を当ててみると、メキシコ国家の憲法構造とオートノミーという対立し合う二つの政治体制を持つようなひとつの領土の中で、サパティスタと非サパティスタが共存している点を彼らが重要視して取り組んでいることは注目に値する。そこではまた、公的な当局が引き起こす紛争的な事態も永続する対蜂起的な敵対行為の一部として対処される。最も重要なのは、善き統治の評議会は自らの地域に存在する自治体同士の間で起こる不均衡に対処せねばならず、相互に重要な問題について彼らの間を取りもって調整することに努めなくてはならないということだ。彼らには義務がある。すなわち集合的な生に浮上する困難を乗り越えるために手助けとなる新たなプロジェクトを提案し発展させること、すべてにわたって女性が参加することを奨励すること、領土の保護や環境の保護、そしてそれに見合った生産能力を拡大させること、これらを複数のアセンブリとの連携の間で果たすという義務である。
加えて、オートノミー内での権限を与えられた者達はそれぞれの市民登記を保持し、共同体から地域、そして善き統治の評議会に至るまですべての水準において公正性に責任をもつ▼14。取りもつことを基調とする彼らの公正性は、国家司法の原則から徹底的に遠くにあり、懲罰的な投獄を訴えることはなく、かわって奉仕活動を行わせるか、被害者やその家族に賠償を払うことで当事者間の合意と和解を求める。法律の極端な公式化や特権化とは対照的に、オートノミーの正義は、争いの解決や集合のルールの違反への対処が特殊な訓練を受けていない人々でも可能であることを示してみせる。オートノミーにおける司法の実践はメキシコ憲法に基づく司法制度とはまったく対照的で、腐敗がないだけでなく先住民のリアリティに対する理解をもとにしており、完全に無償であることがサパティスタ以外の人々も含めて高く評価されている。
オートノミーの政治組織について話を戻すと、この組織が基礎としているのは、アセンブリの役割(すべてが水平的に決定されるようなケース以外は、欠かすことのできないでものある)と、「被従属的統治(mandar obedenciendo)」と言われる、選び出され権限を与えられた者たちの役割との間の相互作用である。サパティスタの領土の入口に据え付けられた控えめな看板にて宣言されている「人々が支配し、政府が従う」という信条を実際のものにする、統治の任務が遂行されるその様式とは、具体的には一体どんなものだろうか?
そのひとつの特徴として挙げられるのは、統治の身分は「責務(cargos)」として設定され、給与や物質的な恩恵が伴わないようにされていることである▼15。実際に行われているのは、誰も役割に自ら立候補することはせず、共同体の方がその役割を務めるべきだと考える者たちに話を持ちかけるという方法である。この責務は、共同体への奉仕という倫理を基礎として引き受けられている▼16。これは「被従属的命令」の七規律によって表現されている(例えば、「奉仕せよ、自らにではなく」、「推薦せよ、課すのではなく」、「納得させよ、打ち負かすのでなく」などがある▼17)。これらの責務は、統治機関の専門性を最小限にとどめて合議制で行われながら、他の合議報告の審査に務める委員会の監理下に常にあり、さらにすべての人々の監理の下にある。その身分は一任期のみのものであり、「もしも権限を与えられた者達が自らの仕事をふさわしく行っていないのならば」、任意の時に無効にされうる。
役職に就く男女は共同体の者であり、普段はその共同体のメンバーである。彼らは特殊技能や特別な才能によって選出されたとは主張しない。善き統治の評議会のメンバーたちは、「何の専門でもなく、ましてや政治を専門とした人々などでもない」▼18。サパティスタのオートノミーを特徴づける性質がただ一つだけあるとすれば、それは政治的活動の非権力化である。ここから知識のない位置からでも権威の行使が可能であるという認識がうまれる。オートノミー評議会のメンバーたちは、実際にいかに身に降りかかった務めに対して彼らが知識など身に備わっていないかをすすんで示し見せている。「誰も権威者ではないし、私たちみなが学ぶ必要がある」。 しかしまた自らの知識がないことを認識しているがゆえに、責務を一時的に持たされた者達は皆から話を聞いて学び、自らの間違いを認識する方法を知り、意思決定においては共同体に導かれることに身を任す良き権力の座にある者になることができることも強調している▼19。サパティスタの実験において、執行のための特別な能力もない人々へと統治の仕事を任せることは、「被従属的命令」が発展することのできる地平を具体的に開くものであり、統治者と被統治者の分断が発生するリスクに対して防波堤となっているのである。
ここまで見てようやく、決定がなされる仕方が重要となる。「善き統治の評議会」はそこで出された主要な提案を地域レベルのアセンブリへと差し出す。もしもそこに大規模なプロジェクトが含まれていたり明確な合意が得られない場合は、すべての共同体から選出された者たちへと委ねられ、それに対して彼らは次回のアセンブリの際に承認、却下、または訂正案などを持ち寄るためそれぞれの村で協議を開く。必要になれば、アセンブリで提出された訂正案を話し合って新たな提案を作り出し、各共同体へと再び送り返す。時として提案が承諾されたとみなされるまで、善き統治の評議会、地域のアセンブリ、村の間を何度も行き来することもある。このプロセスは骨の折れるものになることもあるがそれでもやはり欠かすこのできないものであり、サパティスタたちはこう認識している。「人々によって分析され話し合わされない計画は失敗する。それを私たちは経験してきた。」だからこそ、「いまやすべてのプロジェクトは話し合われる」のである▼20。
水平主義と権限を与えられた者の役割
アセンブリや意思決定のプロセスに全員が平等に参加することを絶対優位とするような純粋水平主義的な読み方を、サパティスタのオートノミーに当てはめることは避ける必要がある▼21。「被従属的命令」は、国家機械の特徴のひとつである、集合的意思決定のための能力を人々から奪うことで政治的出来事を専門家の手に集中させる装置である「させる力(power-over)」の関係から、根本的に逸脱している。人々と統治の関係が未だに命令と服従という言葉で説明されているのには少々驚かれるかもしれないが、人々と統治という関係が逆説的に結び付けられることでこの意味を完全に逆転させていることを理解する必要がある。サパティスタのオートノミーにおける統治が命令することができるのは、共同体の意思の表出に沿って行動するその範囲内でのみである。エスクエリタ・サパティスタで提示された説明は、よりニュアンスを拾うような読みを可能にする—人々が支配し(manda)、統治側が従うときがある。そして人々が従い、統治が支配するときがある▼22。この正反対の二つの関係は、一方から他方への一方行的な関わりが、あるいはその逆向きの関わりが行われるような特異な出来事が起こる結果、根本的に分離することなく、部分的に独立したものとなる。統治は服従するが、それは人々と協議し合い人々が要求することを実行するためであり、統治が命令するのは、集合によって慎重に話し合われたのちに浮かび上がってくる決断を適用し、それを承諾することを確実にするためである。またメキシコ国家、あるいはそれが支援する準軍事組織との闘争の状況においては緊急事態の中で協議することなしに行動を起こす必要がある場合にも、統治は命令を行う。
権力の座にある者たちはある特殊で重要な役割をもつ者として考えられている。それは、用心深くあり、主導をとり、励みとなる義務である。マエストロであるハコボはこう述べる。「彼らは導き、手引きを行い、奮い立たせる、しかし決定したり押し付けることはしない。人々の方こそがそのようなことを担う」▼23。自治体の評議会や善き統治の評議会が履行できるのは、アセンブリで話し合われ承認されたことだけであるが、しかし意思決定プロセスの最中における権力の座にある者たちの具体的な貢献を看過、あるいは過小評価をしてはならない。これが意味するところは、共同体から一時的に「権力の座につく」という任務が与えられた者たち—彼らは命令や強制のできない権威主義とは異なる—が持つ特異な役割とは、集合的行為の能力を強化するために使用されるモーターあるいはリンチピン的な働きをするものとして理解されるべき、ということである。したがってサパティスタオートノミーにおいて権力の座にある者とは、集合内のある一部が他者に向かって振るうような真の「させる力」を持たないし、また、イニシアチブや遂行能力の欠落によって崩壊を招くリスクを犯す純粋な水平主義者でもない▼24。こうした意味においてサパティスタの実験を観察すると、二つの規律があることに気づかせてくれる。一つは、意思決定能力の大部分は各水準のアセンブリが担っているということ。もう一つは、統治を行う上で、交ち回りで撤回可能な統治責任を担う者たちは、役割を果たすうえで度を越してはならないが中途半端でもならないという二重の危険性に常に晒されながらも、手引きをし、奮い立たせ、かつ、人々とその彼らの自己組織化の能力を仲介する特殊な役割を持つ、ということである。
委任の非切断的な様式
代表制民主主義と直接民主主義の対立を排し、サパティスタのオートノミーを分析することは、共同体レベルのアセンブリ、選出された権力の座にある者たち、その彼らで構成された自治体・地域レベルでのアセンブリ、これらの複数の役割の間の相互作用を理解することになる。サパティスタのオートノミーにおいて委任のなされる方法は各アセンブリのメンバーたちにとっても重要であるが、権力の座にある者たちにとっても劣らず重要である。この委任方法については、そのなされ方において構造的分離の性質を持つ形態のものと、非切断なもの(あるいは可能な限り非切断であろうと努めている)との間に明確な区別を設けなければならない。前者は、統治者/支配者の利益のための分断と占領を意図しており、そのため結局のところ代表される側の不在をもたらすような代表制の従来的な形式を計画的に編成するものとなる。一方後者は、統治者と被統治者の分断を可能な限り縮減させる方へと向かう性質をもつ。
ここで前者と後者を何が分けるのかを正確に定義する重要性について考えてみる。サパティスタによる実験が以下の特質を検討する機会を与えてくれる—選出された立場は、短期間の一任期のみに限定されており、即座に無効化され得る。責務は合議的なやり方で個人化されることなく遂行される。別の組織体が統制をもつ。意思決定能力の集中が制限され、かつその能力の大部分はアセンブリが担う。強力な集合倫理と、[人々に]傾聴する技量が存在する。しかしとりわけ重要なのは、政治活動を効果的に非権力化することであり、つまり政治活動はある特定の集合に蓄積されることはあってはならず、可能な限り広くに担われるべきものとされていることである—「全員が順に統治を行う者にならなくてはならない」▼25。上記で言及したように、選出された権力の座にある者が政治的な事情について他の誰かよりも多くを知る者などではないとすることこそが、充全に政治を非権力化する条件である。このために、責務を遂行する人々の生のあり方が他の人々の生のあり方と切り離されていないことが重要となる。こういったことが、善き統治の評議会(この評議会のオフィスは「カラコル(caracoles)」と呼ばれる地域センター内に存在し、しばしば村々から遠く離れた場所にある)のメンバーが10日から15日のローテーション期間の中で活動を遂行する所以であり、普段行っている活動を長期間にわたって遮ることなしに再び自らの家族や土地へと戻ることができる。集合的な生の中で特定のある役割—それがどんなに短くとも、またどんなに手落ちがあったとしても—、それを担っている人々のライフスタイルと共通世界との狭間に分断が生じさせてしまうのを防ぐために、この様式は不可欠なこととして考えられている。
それでも統治する者と統治される者の間に分断が再び生じてしまう危険は常にある。だからこそ、オートノミーの政治の価値はただそれがもつ実践的なメカニズムによってのみ測られる。分断が生じるリスクと戦うために絶えず工夫を施し、権力の座にある者の機能を分散させなければならない。もちろん、委任の分離/非分離の形式を区別する確実な方法などは存在しないが、そのためにこの対立の意味が薄れることはない。この対置を行うことこそが、国家による政治(集合の潜在性を計画的に奪い、権力を「させる力」へと凝縮させる)と、非国家による政治(統治する者と統治される者の分断をなくすことに努めながら、その再発生に対し不断に戦うことで、権力の行使は集合的潜在性の顕現として留まる)との違いを理解するための中心となると強く主張したい。
自己統治vs国家による分断
「私たちが自らで統治ができると気づくことに彼らは恐れている」。マエストラたるエロイザから発せられたこの教えは、オートノミーの真の意味と経験の要旨を完璧に抽出している▼26。彼女が為したのは、まさに近代国家の基礎の破壊以外に他ならない。ホッブスの『リヴァイアサン』の口絵は、住民のいなくなった都市や田園を描いているが、一方で臣民の集団は領土を支配する君主の巨大な身体に内包され、国家の化身である者の利益のために人民は可能性を削ぎ落とされて初めて実在することを表している▼27。ジョルジョ・アガンベンによる分析では、「つまり、人民とは絶対的に現前するものであるが、それ自体としては決して現前することができない、したがって表象しかされえない。人民の不在を「アデミア」(ギリシャ語で人民を意味するdēmosに由来する)と呼ぶならば、ホッブスの国家は、あらゆる国家と同じように、永遠のアデミアの条件のなかにある」▼28。近代国家の後期形態では、人民の不在は異なった様式をもつものとして措定されているが、常に見張られている。ヘーゲルの見方では、自らを統治する能力を欠いているのが人民の特徴であり、「自らが何を意思するか知らないあの集団」である▼29。その無知から、「最高位の市民奉公者たち」だけが共的な善のために行為することができるゆえ、人民は彼らに頼らざるを得ない。▼30」
こんにち形式的な民主主義の価値観が公言されているにもかかわらず、政治階級やあらゆる種の専門家が利益を得る収奪の現象がますます公然となっており、事実、それが代表制の危機と呼ばれるものの中心となっている。役人や議員を選出するプロセスは、市場や経済的支配者の利益に従うどれもこれも似通った政策や、集合の潜在性の収奪を単に正当化する役割を果たしているに過ぎない。それならばアデミアは、国家、さらに言えば(統治する者や代表者の選出というかなり狭義な意味での)民主国家とですら、その本質において同一であると結論づけることができる▼31。国家は、集合的潜在性を捕獲するためのメカニズムとして特徴づけられる。これがつまり「主権」と呼ばれており、さらには原則的に人民からそれが事実上剥奪されることを確証するためだけに、その「主権」は人々にあると言われる。このように国家は、統治する者と統治される者の分断を強固にするための機械であり、経済世界のこんにちのヘテロノミー的社会規範への服従をさらに強めるために人民の不在を作り出す。
国家中心の政治とオートノミーはまさに、全く異なるということが明らかとなった。組織化、決断、自分たちのための行為、それぞれの人がもつこれらの能力に基づくこと。無能や無学への疑いを収奪と周縁化を正当化するための道具として拒否する共的な気高さを前提とし、ふさわしいものとして経験される生の形式に従って行為をする集合的潜在性が拡大すること。一時的であれ責務に就く者たちが生という共通の世界から自らが断絶されないような果てなき奮闘—これらがオートノミーが非国家的政治である理由であり、またサパティスタのオートノミー領域内の善き統治の評議会が、統治の非国家的形態として説明される理由である▼32。
実際のところ、サパティスタは理論と実践の両方で国家中心的な政治を退けながらも、善き統治の評議会という名前からも明らかなように彼らは統治という概念を採用している。それならば、われわれがここでおこなっている国家がもたらす分断への批判には、統治こそ近代的権力の形態を構成する重要な要因であるとする、ミシェル・フーコーが提示した統治批判を見落としているのだろうか▼33。フーコーの分析によれば、統治性は国家権力の古典的な側面、すなわち刑罰や懲罰を凌駕していき、国家機関を超えて生政治的装置や現実そのものを規制するためのインフラ、つまり人口の「管理を管理する」ようなものにまで及んでいる▼34。けれども、特にピエール・ダルドやクリスチャン・ラヴァルが展開したような、フーコーの議論への適格な批判がいくつかある。国家主権が生政治的な統治性に取って代わられたというよりも、その統治の形態が主権そのものの論理の中で、あるいは少なくとも主権との密接な関係の中で展開されているという仮説の方がより適切といえるかもしれない▼35。新自由主義路線へと舵をきった国家による権威主義的で抑圧的な策略の復活に対しては、分析における再方向転換が喫緊で必要だろう。
サパティスタにおいては、彼らが「統治」と呼ぶものが、近代後期における権力の技術が支配的ではないとしても、主要な要素となっている統治性とはほとんど無関係であるということがまずは認識されているべきである。サパティスタオートノミーの用語としての「統治」とは、難解な官僚的構造とも、集団を管理する生政治的装置とも異なる単純な仕事の集積である。ある明晰な観察者は、善き統治の評議会の働きを以下のように説明した。
国家の神秘や威信などといった正真正銘のいかさまは、ほとんどが素朴な農民で構成される評議会によって排除された…困難極まる複雑な状況のもとで、公然と、簡素に、仕事を行う…それも数ポンドで働き、白昼堂々と行動し、誤りなどないと気取ることもなく、怠慢な役所の陰に隠れることもなく、正された失策のことを告白することに恥じもしない。軍事、政治、行政の公的な機能を、訓練を経た特権階級がもつ密かな属性などにはせず、共同体の本当の役割として一元化する。
読者がこのマルクスによるパリ・コミューンの記述が(ただし、「コミューン」を「評議会」に、「労働者」や「労働者層」は「農民」や「共同体」に変えられている)、サパティスタのオートノミーの仕組みをうまく記述していることに気づくだろう▼36。ここで「統治」という言葉で説明されている物事は驚くほどに単純なことに過ぎない。善き統治の評議会のオフィスは、装飾的な壁画が描かれた外観の小さな木製の家であり、内部にはテーブルが一つにベンチが少し、そして良くてせいぜい時々接続されるコンピューターが一つや二つだけある。こういったミニマリズムと、さらにいえば、発達以前の行政機構すらもないことは真の住民統治の確立が可能であるような構造からは程遠いことを示していおり、むしろこのケースにおいては統治批判の援用はほとんど意味をなさない。ここで考えられているのは別の現実の秩序である。そしてヨーロッパの伝統的思想に劣らないほどの高度な思考を生み出すことができる先住民の政治哲学によって特徴づけられたサパティスタの統治概念が、いかに全く別の系譜のものであるかを思考することはたしかに有益である▼37。
それでもまだ付け足さなくてはならない重要な細部がある。いうまでもなく、「自らを統治すること」が、例えば単に誰かが以前に自分たちの場所でやったことと同じならばそれは新しいことだとは言えない。商品の世界で統治を行えば、それは単に経済的規範を自らに押し付けるに等しいだけである。だから自己の統治とは、他律の論理に自ら服従すること、いわば自己他律化的なことに他ならない。平たく言えば、現状を管理するために、あるいは強迫的な生産主義がますます破滅へと螺旋を描いてドライブしていくようなシステムが抱える難題を打倒しようとするために、自己統治の様式を取り入れるのではない。「自らを統治する」ことが充全に意味を持つのは、集合的潜在性の動員によって自己決定的な生の形式を現出させる限りであり、その生の形式が資本主義的・市場的な他律性から解放されるのはあくまでその結果である。
マルクスからの引用から浮き彫りにされるように、評議会とアセンブリからなる統治が適正であるのは、それが共有される生の形式に根付き、共的なものに向かうことを求めるような集合的な活力の顕現がそこにある場合である。このように捉えると、サパティスタが行う自己統治とは、しかるべき共的な生の形式を守り、再活性化させ、さらにはその形式のうちで変容することのできるような集合的な活力が、力強く顕現されたものであることが分かる。これは、ある生のあり方を他律的に押し付け適応させるような「管理の管理」などではなく、むしろ個人・集合行為の発展を通じた共的な生の拡大に寄与をするものである。「サパティスタ的な自由」とは何かを、チアパス州の反乱軍は言葉を慎重に選び説明した。その自由とは、特定の組織体(評議会やアセンブリなど)を作り出すことだけではなく、生のあり方を集合的に自己決定していることもとりわけ考慮し理解されなくてはならない自己統治の芸術である▼38。サパティスタたちは「オートノミーとは、人々のふさわしき生である」と宣言することによって、彼ら独自のやり方でオートノミーと自己決定的な生の形式との間をかいくぐって事柄を指し示している▼39。オートノミーは、その最大限の意味で理解すれば、誰もがふさわしいと感じる生の形式を拡張させたり変形させる能力のための継続的な発明、そして自己組織化と自己統治の実践の継続的な発明が、そこに織り込まれていることが分かる。
脱構成のプロセスとしてのオートノミー?
ここからは、サパティスタによる実験を思慮したうえでのオートノミーの視座と、近年の脱構成という仮説—この二つには明らかな相違点があるもののそれを看過することなしに—これらが集約する可能性について探究を進めたいと思う▼40。われわれがここで脱構成という言葉を使って意味するのは、権力からその基盤を剥奪して機能不全にすることであり、さらに構成的権力(また新たに構成された権力を正当化させるような虚構)に対して、「構成された権力へと解消されることのない」脱構成的潜在性を持って抵抗することである▼41。
まずひとつ、約三十年もの間続く日々の抵抗により、メキシコ国家や経済世界の論理とそれがもたらす破壊はサパティスタの領域内では実質的に機能しなくなった。これが具体的に実践へともたらされた脱構成であり、それが類例を見ない規模で行われたということは否定し難い。国家と経済の両者からの支配を解く能力、あるいは少なくともそれを押しとどめる能力とは、効果的な脱構成的潜在性の現れではないだろうか? さらに言えば、脱構成という概念は、オートノミーの実践がもつ敵対性の側面を重視しつつも、オートノミーをいまここで作り上げることの肯定的な側面に依拠している。この二つを同時に提起することは、脱構成とはその全てが否定的なものであるという議論に対する反駁となる。だからわれわれは、この否定性の側面は避けるべきものでもなく、黙認すべきものでもないと応答しよう。なぜならば、そうすることはこの闘争を抽象的な次元に追いやる危険を生むことになるからだ。そして最後に、これが最も重要なのだが、サパティスタのオートノミーが脱構成的であるとはっきりと言えるのは、それが生の共的な形式を強化し、刷新するひとつのやり方そのものであるからだ。
しかし脱構成のプロセスは、ネオリベラル国家や悪き資本主義の支配を解くことだけを目的としているのではない。それはひとつの継続するプロセスであり、そのプロセスを肯定すること自体によってそうなのである。同様にオートノミーもまた、自らに危害を与える可能性をもついかなることに対して絶え間なく闘争を展開することによって、紛れもなく継続する脱構成的プロセスであると言える。このように捉えられるオートノミーは—いかなる真の変革が起こる前ですらも—新たな憲法を起草しようという強迫的な衝動を避けることをわれわれに可能にさせる。それは統一的な思考にもとづく抽象的なアプローチによって行き場を失う国家的思考の典型である。サパティスタたちはオートノミーの憲法を書いたことなどない。それどころか、彼らは実践上の多大な困難があるにも関わらず、文書もつくらず、導きとなるようなあらかじめ準備された指針を作ることなしにつきすすむことを選んだ▼42。彼らにとってオートノミーとは、いかなる聖典によっても(前もって)決定されることのないプロセス的政治であり、憲法フェティシズムとは区別されるべきものである。
サパティスタによる実験の驚くべき点は、集合的組織化の形式を流動的なままに保つ能力である。さまざまな活動の分野(教育、保健、生産など)においても、オートノミー的統治を行う組織体においても、途上で遭遇する困難に対応するために、あるいは新たな視点を取り入れるために、実践は絶えず変更される▼43。そこでは固定された形式もなければ、制度化されたものへのフェティシズムもない。代わって、不満、間違うことへのおそれ、そしてそれを正したいという意欲が糧となる、ある種の永続的な緊張状態がある。核心にあるのはサパティスタの信条であり、実験の豊かさと流動性を維持するために不可欠な「問いながら歩く(caminar preguntando)に沿って、前進する道を見つけるための実験のプロセスなのだ。オートノミーは過程という政治であり、制度的なものがもつ硬直性と正反対のものであり、困難を与えてくるあらゆるものに対する永続的な闘争を行いながら、自らの集合組織の形式を絶えず変形させていく。
エスクエリタである一人のマエストロが述べたように、オートノミーには「終わりがない」。この言葉は、継続する彼らの実験が完全なものではないという健全な自覚と、オートノミーをつくることが決して完璧で完全なものとは考えられないことを物語っている。いつの日か目標に到達し、十全に表現されたものとして存在していると主張しうるような理想的な社会を作る、というようなおごった幻想を退けるものである。制度化された現実の中で硬直化してしまう危険性や、分断を生む権力が再構築されることに対して絶えず闘争を行う必要性を認識すること、内在するプロセス的側面を認識することによって、オートノミーは終わりなき真の政治活動となる。オートノミーとは、こういった慎重な脱構成的プロセス、それも権力を機能不全にするよう努めるだけでなく不断に闘争を行い制度的なものの固定性に対してプロセスにおいてそれに打ち勝つような脱構成的プロセスなのである。
そしてここに残る、オートノミーにおける実験と、純粋な脱構成的潜在性の存在を肯定すること、この二つの間に起こりうる亀裂の問題について考えてみる。そのためには、継続する脱構成化の側につくようないかなる再制度化の様式に対しても注意を払うことが求められる。しかしより正確には、制度(institution)と言うことで何を意味するのか? このような難問を解決すると主張することはできないとしても、いくつかのアイデアを並べてみよう。制度批判の対象は、現実の安定化を強制し生の形式のもつ流動性に干渉をしてくるような固定化された実体、あるいは分断を生む権力を強固にするための道具や国家による収奪の道具としての固定化された実体である。非国家的、プロセス的政治であるサパティスタのオートノミーのような実践には、言うまでもなく、このように定義された制度が落ち着く余地はない。けれども一方でサパティスタの実験においては、実存の共的な様態が繁栄するためには、組織体と関わるもの全員が展開し認めた組織体や規則が必要であることが分かる。こういった組織体や規則を、制度と呼べるのだろうか? 例えば、少しでも制度と認めたという一介の事実が、サパティスタの組織体や規則に制度という言葉に見合った程度の静態化をもたらすならば、それは受け入れるほかない。しかしながら、この組織体や規則が生の形式の流動性の中にとどまるということ、そして非切断的な集合的潜在性の中にとどまるということを忘れてはならない。したがって、この組織体や規則について、それらが制度と呼ばれるしかないと言われたとしても、集合の潜在性を奪ったり屈服させたりするような固定的な実体という意味での制度を想定する必要はどこにもない。
習わしや規則に対する敬意が、集合的に取り入れられた生の様式を支えていながらも、その習わしや規則はいつでも変容可能である、ということも付け足しておこう。しかしその変容可能性はそれ自体一つのプロセスであり、その都度ゼロから自己定義されるものではない。何も制度の中で固定化されてはいないが、既に実在するものをどのように変容させるかは、変容されるものの方が規定するのだ。そしてその結果から修正する方法を部分的に知ることができる。生の形式の豊穣さが脱構成的を育み、それを可能なものにするとするならば、オートノミーに終わりがないように、完全な脱構成というものなどもないと主張できる(なぜなら、おそらく生の形式の完全な豊さをはっきりと述べることは不可能だから)。こういった理由から、オートノミーの終わりなき過程性と、それに相反し脅威を与えうるものとの間にある解きほぐされることのない緊張状態から逃れること不可能であり、さらにこれと同じ様に、脱構成への絶え間ない動きと、生の形式のもつ制度的側面—つまり、あらかじめそこにあったもの—との間の解決されることのない緊張状態から逃れることもまた不可能であると認識することが、われわれに聡明さをもたらす。
結論
われわれはサパティスタのオートノミーが脱構成の実験とみなされることを提唱する。メキシコ国家から完全に離脱した状況の中で——それに伴う長期に渡って抵抗する能力と暴力的な反応を示しながら——作られていること、また、生の形式を破壊しようと押し寄せる近代化/商業化の戦線に対し、何があろうとも防衛を可能にする共的な、自己決定的な形式の拡大においても脱構成の実験が行なわれていることはあきらかである。オートノミーが力強くあるところでは、市場の論理が完全とは言わなくとも部分的には解かれており、メキシコ国家の諸制度が入り込むことはない。メキシコ国家の制度はただ単に拒絶されているだけではなく、自らを組織化していく集合的な能力の確立によって機能不全にされ、それゆえに無用なものとなることで具体的に脱構成されているのだ。そこでは定義の仕方によっては制度と見なされうる自己統治の組織体を利用しているのだから、この脱構成のプロセスは純粋なものではなく確かに不純なものである。同時にこれが制度的なものによる硬直化を避けながら、自己決定的な生の形式を拡大するための道具であり続けていることを認識することは重要なこと、これこそが特に重要なことである。セルジェ・カドリュッパニが述べたようにもしも今の時代が不純な反乱の時代ならば、不純な実験を期待するしかない。オートノミーにおける実践は、制度として批判されやすい側面、分断を生む権力の道具としての側面を本来的に避けることができない。オートノミーには再制度化、つまり分断を生む権力を再発生させる危険が必然的に少なからず伴う。この危機を回避するためには、それに自覚的であることが不可欠である。
そのため、オートノミーの政治とは何かを特定し、その上で何がそれを脅かすのかを今一度はっきりさせておくことは有益なことだろう。オートノミーを非国家的政治として定義することは、政治の国家的形式と非国家的形式という(その境界は不分明であるものの)区別が設けられることを意味する。政治の国家的形式とは、もとより切断的な委任方式によって集合の潜在性を収奪する力やさせる力の凝集性を強化させていき、政治の非国家的形式とは、非切断的に権限を与える形で、集合の潜在性を守り増大させながら、個別的なものに刈り取られてしまうことを防ぐ。このように見れば、オートノミーは単なる国家のない政治ではなく国家に抗する政治である。それは国家に敵対するという理由からだけではなく、国家的な分断を回避することが意図された政治メカニズムの実行をオートノミーが含意するからである。
またオートノミーが状況[ルビ:シチュエーション]に規定された政治であること、つまりある特定の領土の異質性や住まわれ方が、その内に刻み込まれているものであることを忘れてはならない。それは必然的に、そこにいる共同体や集団がもつある特有の現実へと錨が下ろされた、その場固有なものである。けれどもその特定の投錨点から、連携や交換の形式が地域横断的に行われる方向や別の地平に向かって開かれることができるゆえに、あるひとつの地域の次元に排他的に限定されるものではなく、さらには抑制的なローカリズムでもない▼44。実際に、サパティスタたちの反乱による実験は、息詰まるようなローカリズムと抽象的ユニバーサリズムの誤った対立から抜け出すことが可能なことを示している。サパティスタが指差しているのは「多くの世界を共立させるひとつの世界」を呼び寄せるようなある地平だが、それはある場の特性を活かした実験の増殖に端を発すると理解する限りでのみ、地球規模的な次元が意味を持つことができるひとつの地平を指し示している。なぜならオートノミーはある状況の政治であり、オートノミーはまた、必然的に多数性の政治であるからだ。
最後に、オートノミーは政治的な言葉だけでは定義されることはできない。オートノミーが前提としているのは自己の統治を実践することから、しかるべき生の自己決定的なあり方の拡大を切り離すことは不可能である、ということである。この前提こそが、オートノミーをその広さにおいて理解するためのただひとつの道である—すなわち、非国家的政治を要請することが結びついているのは、生きた世界を織りなす相互依存の網を重んじた、そして支配という社会関係をもたない、あらゆる人たちの気高さある善き生、その生の可能性を守るような解放へと向かう動力なのである▼45。
1 4つのオートノミーコミューンと、7つの「善き統治の評議会」の創造を興した更なるオートミーの拡大が2019年の8月に告知された。
2 解放の空間については以下を参照。Jérome Baschet, Adieux au capitalisme: Autonomie, société du bien vivre et multiplicité des mondes, La Découverte, 2016. 真のユートピアについては以下。Erik Olin Wright, Envisioning Real Utopias, Verso, 2010. またその書評は以下である。Baschet, “Quels espaces libérés pour sortir du capitalisme? A propos d'Utopies réelles d'Erik Olin Wright.” Ecorev', no. 46, 2018 and Baschet, Basculements: Mondes émergents, possibles désirables, La Découverte, 2021.
3 Mariana Mora, Kuxlejal Politics: Indigenous Autonomy, Race and Decolonizing Research in Zapatistas Communities, University of Texas Press, 2017.
4 Jérôme Baschet, Basculements: Mondes émergents, possibles désirables, La Découverte, 2018.
5 オハカで発展した「comunalidad(communality)」という概念については、とりわけFloriberto Díaz(2007)を参照。
6 Subcomandante Moisés , “Entre el árbol y el bosque“ 2007年7月12日に行われた「Frente al despojo capitalista, la defensa de la tierra y el territorio」という会議でのプレゼンテーション。
7 Jérôme Baschet, ¡Rebeldía, resistencia y autonomía! La experiencia zapatista, Editorial Eon, 2018, 196-212. この観点については、サパティスタが考える共同体とは共同体主義と呼ばれるようなものよりもアガンベンの「非本質的な共通性」に近い。以下を参照。ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳(月曜社、2015年、30頁)。
8 Richard Stahler-Sholk, “Autonomía y economía política de resistencia en Las Cañadas de Ocosingo,” in Luchas “muy otras”: Zapatismo y autonomía en las comunidades indígenas de Chiapas, edited by Bruno Baronnet, Mariana Mora and Richard Stahler-Sholk, UAM-CIESAS-UNACH, 2011, 409-446
9 Subcomandante Moisés, “Political Economy II,” in Critical Thought in the Face of the Capitalist Hydra ed. EZLN Sixth Commission, edited by the Sixth Commission of the EZLN, Paperboat Press, 2016, 77-88.
10 Bruno Baronnet, Autonomía y educación indígena: Las escuelas zapatistas de la Selva Lacandona en Chiapas, México, Abya-Yala editores, 2012.
11 Jérôme Baschet, “En camino fuera del mundo del dinero: Apuntes sobre la autonomía zapatista.” Herramienta, no. 57, 2015. URLは以下。 Http://herramienta.com.ar/revista-herramienta-n-57/en-camino-fuera-del-mundo-del-dinero-apuntes-sobre-la-autonomia-zapatista
12 Jérôme Baschet, Défaire la tyrannie du présent: Temporalités émergentes et futurs inédits, La Découverte, 2018
13 2013年8月から2014年1月に行われ、反乱軍の村々に集まった約5000人を迎えたエスクエリタ・サパティスタのためのテキストにて、サパティスタはオートノミーの発展をその難しさと同時に挙げ示している。以下を参照。EZLN, The First-Grade Textbook for the Course: Freedom According to the Zapatistas. 4 vols.n.p., 2013.また以下も参照Subcomandante Moisés, “Political Economy II”
14 Paulina Fernandez Christlieb, Justicia Autónoma Zapatista. Zona Selva Tzeltal, Ediciones autonom@s, 2014.
15 近代における統治性の系譜学の一端としてフーコーがとり上げた、土着の伝統と司牧的権力における、奉仕の倫理の違いをここで注記しておく(「自らの牧者という任務を奉仕であるかのように感じなければならない」指導者である牧者)。ミシェル・フーコー、『安全・領土・人口 コレージュ・ド・フランス講義 1977‐1978年度』高桑和巳訳(筑摩書房、2007年、222頁)。奉仕することは、ヒエラルキー的な関係と公然と結びついており意図的な服従関係の様式を作り出すものであるが、一方で土着的な世界においては、共同体の絆を生み出すための一つの貢献として理解される。
16 責務の遂行を通じて行われる奉仕は、共同性へと帰属を構成する相互扶助の単なる一面に過ぎない。「共同体を作り出す」ひとつのやり方である。以下を参照。Rafael Bautista, La descolonización de la política. Introducción a una política comunitaria, Cideci-Unitierra. 2014, 147.
17 EZLN, “Autonomous Resistance,” in The First-Grade Textbook for the Course:Freedom According to the Zapatistas. N.p., 2013, 73.
18 Subcomandante Marcos, The Zapatistas’ Dignified Rage, translated by Nick Henck, AK Press, 2012, 131.
19 Carlos Lenkersdorf, Aprender a escuchar, Plaza y Valdés, 2008.20
20 2013年の8月、エスクエリタ・サパティスタ開催中にチアパス州サン・クリストバル・デ・ラス・カサスにあるチアパス大地の大学(CIDECI-Uniterra)で行われた口頭発表から。(エスクエリタで行われた口頭発表の翻訳については、スペイン語の書き起こしを翻訳していただいた私の同輩であるMarialaura Boscán Perazaに感謝を捧げたい。)
21 オートノミーの中の市民構造に並立する政治・軍隊組織であるEZLNの存在を忘れてはならない。「EZLNは民主的ではない、なぜなら軍隊だからである」と明らかにされている。以下を参照。EZLN, Sixth Declaration of the Selva Lacandona, 2005, URL https://enlacezapatista.ezln.org.mx/sdsl-en/ 善き統治の評議会の創設中に、EZLNの政治・軍事構造はオートノミーの市民的な責務を負うことが出来ないことが立証された。それにもかかわらず、善き統治の評議会と並ぶ「先住民革命地下委員会(Comité Clandestino Revolucionario Indígena)」のメンバーである指揮者たちの活動は常に意識され、時には批判を受けてきた。この役割はエスクエリタの要覧で非常に直接的な言葉で説明されている。これについては以下を参照。EZLN, The First-Grade Textbook for the Course: Freedom According to the Zapatistas, 2013. EZLNの政治・軍事指導者たちは、コミュニティや市民による統治組織体によって与えられていた権力を返上しているが、それは現在進行中のものであり不完全なものである。これはオートノミーがプロセスである理由のひとつとして挙げられる。以下を参照。Jérôme Baschet, ¡Rebeldía, resistencia y autonomía! La experiencia zapatista, Editorial Eon, 2018, 88-94.
22 Maestro Fidel, oral presentation, Escuelita zapatista, CIDECI, August 2013.
23 Maestro Jacobo, oral presentation, Escuelita zapatista, CIDECI, August 2013.
24 「する力(power-to)」と「させる力(power-over)」の違いについてはジョン・ホロウェイ『増補修訂版 権力を取らずに世界を変える』大窪一志、四茂野修訳(同時代社、2021年、64-69頁)を参照。
24 Maestro Jacobo, 2013.
25 Maestra Eloisa, oral presentation, Escuelita zapatista. CIDECI, August 2013.
27 ジョルジョ・アガンベン『スタシス 政治的パラダイムとしての内戦』高桑和巳訳(青土社、2016年)
28 アガンベン、前掲書、94頁。
29 Erik Weil, Hegel and the State, trans. Mark A. Cohen, John Hopkins University Press, 1998, 69.
30 Weil, Hegel and the State, 69.
31 国家と民主主義の対立については、ミゲル・アバンスール『国家に抗するデモクラシー マルクスとマキァヴェリアン・モーメント』松葉類、山下雄大訳(法政大学出版局、2019年)、また同著者による以下も参照。Pour une philosophie politique critique (2009).
32 オートノミーはまた「反-政治」としても理解されうる。ジョン・ホロウェイ、前掲書を参照。この「反-政治」という表現と我々がここで非-国家と呼ぶものはかなり近接している(共的な気高さと集団行為の決定に参加するためのあらゆる人に属する共的な能力、そして垂直性に対する水平性の優位性とあらゆる形式の硬直性に優るプロセス的アプローチ、倫理的問題と政治的問題を一体化させることなど)。
33ミシェル・フーコー、前掲書。またジョルジョ・アガンベン『王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために』高桑和巳訳(青土社、2023年)を参照。
34 国家機構が崩れるにつれて統治性が増していくという議論については、不可視委員会『われわれの友へ』HAPAX訳(夜光社、2016年)を参照。
35 Pierre Dardot and Christian Laval, Dominer: Enquête sur la souveraineté de l’État en Occident, La Découverte, 2020
36 この記述は以下からの引用である。Theodor Shanin, Late Marx and the Russian Road, Monthly Review Press, 1983, 89. さらにこの著書が引用しているのは以下である。 Karl Marx and Friedrich Engels, Writings on the Paris Commune, ed. Hal Draper. Monthly Review Press, 1971, 153.
37 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学 ポスト構造主義的人類学への道』檜垣立哉、山崎吾郎訳(洛北出版、2015年) 南アフリカ原住民とマヤ世界では大きな違いがあるものの(マヤの世界はスペインによる征服よりも前に国家による支配を経験している)、ピエール・クラストルによる著作は思考の良い出発点となる。とりわけ、「責務」、「被従属的統治」の枠組みに確かな類似性を持つクラストルの「権力なき首長」の形象について。ピエール・クラストル『国家に抗する社会 政治人類学研究』渡辺公三訳(水声社、1987年、256-259頁)を参照。また以下も参照。Eduardo Viveiros de Castro, Politique des multiplicités: Pierre Clastres face à l’État, Éditions Dehors, 2019.
38 EZLN, The First-Grade Textbook for the Course: Freedom According to the Zapatistas.
39例えばこれは、2018年の8月9日に「Comparte por la humanidad」という祭りの期間中、モレリアのカラコルにてラ・レアリダーからやってきたサパティスタたちが行った「生と死」という題名の演劇の中で発された言葉である。
40 アガンベン『スタシス』、また不可視委員会『われわれの友へ』を参照。オートノミーと脱構成の二つが引き合わされているものとして以下が挙げられる。Marcello Tarí and Vicente Barbarroja, “Azufre rojo. El retorno de la Autonomía como estrategia,” in Marcello Tarì, Un comunismo más fuerte que la metropoli: La Autonomía italiana en la década de 1970, Traficantes de Sueños, 2016.
41 ジョルジョ・アガンベン『身体の使用 脱構成的可能態の理論のために』上村忠男訳(みすず書房、2016年、448頁)
42 「ガイドもなかった、いかにオートノミーを作ればいいか分からなかった。[…]参考にしたり従ったりする本もなかった…」 EZLN, Autonomous Government, Bk. 1. From The First-Grade Textbook for the Course: Freedom According to the Zapatistas, 44.
43 「我々がやることと言えば一歩踏むことだけで、それは機能するかどうか確かめてみるのに必要なものだ、もし機能しなければ変える必要がある」EZLN, Autonomous Government, 54.
44 Jérôme Baschet, Basculements: Mondes émergents, possibles désirables, La Découverte, 2021.
45 (他者や非人間世界との)相互依存と、生の形式を自ずと決定するという意味でのオートノミー、この二つを対置することはせず、「ヘテロトロフィー(heterotrophy)」(他者との結びつきによって栄養を獲得し、かつその他者は自らの構成要素として捉えられる)をもったオートノミー(支配と服従を含意するヘテロノミーに対する拒否としての)を示し出すために、以下のテクストを挙げておく。Jérôme Baschet, “Conception relationnelle de la personne, communauté et autonomie politique,” Itinérances, ed. Josep Rafanell i Orra, Divergences.
Jérôme Baschet“Zapatista Autonomy: A Destituent Experiment?”
2022・9・8
Https://illwill.com/zapatista-autonomy